なんということでしょう、前回の更新からたった数日で更新できるなんて。
じつはわたしは、やればできる子だったのでしょうか?
ダブル青木と勝手に並べるのも違和感ありまくりですが、第3回は青木景子、第4回は青木光恵を取り上げようと思います。名前が同じで、わたしが好きだという以外に特に共通点はありません。

青木景子は、わたしの子ども時代において重要なパーツのひとつである「詩とメルヘン」からプロデビューした詩人です。
「詩とメルヘン」とは何ぞや? それは、故・やなせたかし先生が編集長を務めた、サンリオ刊の月刊誌。タイトルのとおり、題材は詩と、「メルヘン」というファンタジックな大人の童話が中心で、そこに美しいイラストが惜しげもなく添えられた、今思えばなんとも贅沢な雑誌でした。
「詩とメルヘン」がわが家にやって来たのは、父が偶々、書店で見つけて買ってきたのが最初です。わたしの父母は、わたしとは似ても似つかないほど読書をしない人たちでしたが、「本を読めば賢い子になる」とでも思っていたのか、本は比較的多く買い与えてくれました。だいぶあとになってから、「なんで『詩とメルヘン』を買って来たん?」と訊いてみると、「きれいな本やなあと思って」と答えが返って来ました。父にもきれいなものを愛する心があるんだと、ずいぶん失礼な感想を抱いたものです(笑)。

「詩とメルヘン」は、詩人やメルヘンの作家だけでなく、数多くのイラストレーターを起用していました。
北見隆、東逸子、黒井健、葉祥明、牧野鈴子、きたのじゅんこ、おおた慶文、味戸ケイコ、早川司寿乃、高田美苗、内田新哉…ああ、名前を打つだけで懐かしさとときめきが蘇って来ます。宇野亜喜良や林静一といった、当時でもすでに大御所のイラストレーターの作品が見られるのも、たいへん貴重でした。
このころは、サンリオから詩集や大判の画集が、ばんばん出版されていたもので、正方形の詩集には、やはり詩とメルヘン関係のイラストレーターが絵を手掛けました。
メルヘンの分野でも、谷山浩子や安房直子、竹下文子、すやまたけしといった方々が執筆しておりまして、特に谷山浩子のこのころの小説が大好きでした。眠る方の夢を語ることは至極難しいものですが、谷山作品においては、それが成功しているかのような不思議世界が見事に描かれているのです。

…と、ついうっかり「詩とメルヘン」について熱っぽく語ってしまいました。まだまだ云いたいことがあるので、いずれ稿をあらためましょう。
さて、青木景子の詩に初めて出会ったのは小学生のころで、当時はなんだか難解な詩に思え、あまり魅力を感じていませんでした。それよりは、きのゆりの書く少女の童謡のような詩が好きでした(きのさん、いまはどこでどうしていらっしゃるんでしょう!)。
ところが、もう少し大人になると、青木景子の魔術のようにかっこいい言葉遣いに魅了されるようになります。
これが詩人の言葉かとノックアウトされる、アクロバティックで研ぎ澄まされた言葉。音楽のようなリズム。炭酸水のように爽やかな刺激。張りつめた糸のような緊張感。秘境の湖のような透明感。それらはしかし、完成された隙のなさではなく、どこか不安定でぎこちなくもあり、かえって作品の魅力を際立たせていたと思います。
タイアップページに添えられた詩、巻末の投稿者からのお便りにすら、詩人の香りがしました。
どの詩が好きかと問われると困ってしまいますが、いま、手元にはデビュー作の『プラチナ色の海』しかないので、そこから一編、季節に合わせて引用してみます。

「美しい二月」

いっぽんの線に
みんなで並んだら
いっせいに走り出せ!

僕たちは
体ごと空を切って
走り書きのような毎日から
ころがるように飛び出すんだ

長い助走につかれたり
長い迷路にとまどったり
フットワークもなにも
あったものじゃない毎日に
はいつくばってなんかいたくない

風に似たかろやかな
僕たちの脚は
二月のきらやかな光にさらされて
どんな草よりも
どんな樹々よりも
澄んできれいだ


この詩集は、「詩とメルヘン」の投稿作品もいくつか収められているので、「あ、この詩はきたのじゅんこのイラストが添えられていたな~」など、朧げながら思い出すことができて、懐かしいです。他にも好きな「片思い」という詩は、牧野鈴子のイラストだったっけ。
詩集はこのあと、確か再録本を含め7冊が出版されるのですが、内田新哉が絵を手掛けた『道の途中で』は、青木景子の透き通った世界観が、イラストと絶妙に共鳴し合っていたと思います。海に漂流する青い瓶の中のような世界。
そして、忘れてはならないのが『ガールズ』。詩で紡ぐ小説のような作品です。3人の少女が語り手となり、それぞれのモノローグが詩で綴られ、物語ともいえないような日常が進行していきます。刹那を生きる少女らしい粋がり方、子猫のような弱さ、小さくて壊れそうな愛…、まるで青春の宝石箱のような一冊です。

やがて、その表現をさらに研ぎ澄ませるかのように、詩よりも制限がかかる短歌へと活躍の舞台を移していくことになります。
早坂類と改名して出版した処女歌集『風の吹く日にベランダにいる』は、現在ではAmazonで1万円近いとんでもない高値がついていますが、運よく普通の値段のときに入手でき、やはり実家の本棚に鎮座しています。
いまや絶大な人気と地位を誇る歌人・穂村弘も、著書『短歌という爆弾』で、たびたび早坂類の歌を取り上げています。“この歌はほんとうのことだ”と感じさせる圧倒的な力、独特の緊迫感と評していましたが、まったく同感です。

ジャングルの夜にまぎれてドーナツとアイスクリームを食べている。風。

ブティックのビラ配りにも飽きている午後 故郷から千キロの夏

カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした

虹のたつむこうの岸はあてどないあこがればかりに埋め尽くされて


いかしたコピーのようなきらめきと、詩人にしか紡げない言葉の選択と配列。
詩から短歌へと移っても、透明で張りつめた表現、鮮烈な言葉遣い、明るいのに寂しいような世界観は変わりなく、言葉の芸術とはこういうことなのかと目が洗われる思いがします。この、明るさの裏にある寂しさというのは、TM NETWORK時代の小室さんの楽曲にも感じていて、たぶんわたしのツボにはまる感覚なのでしょう。
小説もいくつかお書きになっていますが、小説になると描写や進行のために余分な言葉を加えていかないといけなくなるので、やっぱり詩か短歌のほうが真髄を味わえるのかなという気がします。

余談ですが、かなり後年になって、彼女が主宰する「RANGAI」というサイトから、彼女自身が手作りした1点もののビーズのネックレスを購入したことがあります。なかなかのファンですね(笑)。他にも死ぬほどアクセサリーがあるので、なかなか着用の順番は回ってこないけれど、それはお守りのように、アクセサリーケースのなかで静かに待機しています。
ツイッターもフォローしているものの、最近はあまり拝見していなかったのですが、久々に読んでみると、いまは北九州市でブティックを経営されていることが判明。どこだろう、気になる…。