雪が降り始めました。突き刺す寒さが心地よい、とは言えなくなってます。

で、文学フリマ書評の続きですが、はじめておきながら、こんなことわざわざ書く必要あんのか? と思っていました。でもまあ、せっかくなので書ける分だけ書きますけど。今回は同人誌Daisy Chainさん。


「むらぎも」 羽岡 元


傑作、といっていいだろう。少なくても、私の中では。著者の筆力はプロ作家のそれに劣らない、いや、それ以上ではないかと思っている。喚起力のある文章。リアリズムに徹した人物造形は、いきいきと物語の中を生きている。なにより、語り部が照らし出す寄り添いのまなざしが暖かい。

初見淑子なる女優と、その母親「らく町お菊」の親子2代に渡る来歴は、昭和という時代がいまだ終っていない人々もいる、という事実を思い出させる。たしかに、そういった話はこれまでも散々語られてきたことなのかもしれないが、この当たり前の事実をまだまだ飲み下せないまま生きている人たちもいるだろうし、そこに留まったままの人たちもいるだろう。来歴とは結局、我々が過去からの延長線上でしか語ることができない物語そのもの、ということかもしれない。だから、主人公以外の人物たちにもそれぞれ来歴があり、間接話法で語られるカミソリ英治やおせんのそのエピソードが重層的に織られてゆく構成はたしかな重みをもつ。二人の言葉は、まるで読者の傍で話しかけてくるような、そんな錯覚さえ覚えた。

誇張に聴こえるかもしれないが、つまり「業」の物語といってよいかもしれない。人間は清いままでは生きられないし、だからといって汚れたまま生きてゆくわけでもない。背反する業を背負いながら積み重ねてゆく来歴を生きてきた女の哀切が、ただひたすら胸を打ち、昭和という時間を「今ここ」に感じさせる。正直に告白すると、何度か泣きました。

ラスト1行まで選びぬかれた言葉が織り成す素晴らしい小説に、脱帽です.


揺れる波間を写した表紙や、巻頭の幻想的な切り絵も美しく、大変満足させてもらいました。





夜更けに車を走らせていると、車窓の左手に何かが映りこんだ。スピードを落として目視する。と、蒼白く輝いている巨大な塊が震えているのが見えた。
車を走らせていた場所は市内ではあったが、見渡す限りの田園地帯という田舎臭い場所で、車の往来もほとんどない。舗装された道路の脇を時々、仙石線と呼ばれる路線の電車が、黄色い灯りを洩らし、少ない人を乗せて駆け抜けてゆくだけだった。
徐行の域まで速度を落とした。巨大な蒼白い光の塊が二つ佇立している。聳えている、という形容詞が似合う姿で、その光は暗闇に浮かんでいた。
そこには私立の学園があった。市内でも今や珍しい、男子校である。車を走らせていた道路は、そこに通う学生たちが平日の朝夕に行き交うだけで、車はほとんど通らない。日曜の夜という時間帯は尚のことで、街灯が疎らに灯るだけの、薄ら寒い気味悪さもあるほどだ。そこに現れた二つの蒼い光はさらに異様な雰囲気を助長させていた、といっても過言ではない。
好奇心に駆られ、その蒼白い光に近づくためにクランクを左手に曲がった。ガードレールに車を寄せ、その蒼白い光を注視した。光は夜の風をうけて、蒼く白く明滅しながら音もなく揺れていたのだった。

イルミネーションだった。いくら仙台が12月になると光の街に変わるイルミネーションが風物詩とはいえ、こんな田舎の、それも田圃のど真ん中に建設された学園の巨木に、日曜の夜まで煌々と光らせるというのは、一体どういう訳だろうか。いや、それは学園の敷地内の物であるし、光らせるのは勝手だが、もう少し綺麗にライトアップしてくれたらロマンチックということもあろう。だが、ちょっと工夫が足りないというか、ただ垂らしただけの電飾は、あたりの雰囲気も相まって、些か不気味である。見ていると、そこから銀色の地球外生物が黒いスーツの男二人にぶら下げられて現れてもおかしくないほど、不穏な状況なのだった。
しかし、誰にも見られることなく明滅する蒼白いイルミネーションは、不恰好だ、ということを抜きに見ている分には、誰にも届かない祈りのような、心細さに似ているかもしれない。その心細さは、宇宙に浮かぶ地球のようでもある。
きっと地球も宇宙から俯瞰した時の、その蒼白い姿が真っ黒な闇に浮かぶ様は、祈るような蒼白い光を放っているように見えるのかもしれない。太陽の光を反映しなければ生きてゆくことができない心細い人間の祈りが、どこに届くわけないのと同じように。
などと、勝手に解釈してみたが、直後そんな訳ねーかと自嘲して、またアクセルを踏んだのだった。
さかしまの影、あるいはその幻影。-Photo011.jpg
昨夜からずっと毛玉取りに夢中になってました。気にいっていたカーディガンだったので、矢鱈とムキになって、気づいたら真夜中。
毛玉取り用のブラシを購入予定なのですが、昨夜からもう気になって仕方なく、どこかのネット情報を鵜呑みに、いらない歯ブラシで試してみたのですが。
なんか気合い入れて頑張ったわりにイマイチな結果。かえってニットにダメージを与えてしまい、多少凹んでみたりして。
でも、なにも考えずに単純作業するのは、ストレス解消になったりもします。これが仕事だったら辛くて1時間ももたないのでしょう。

で、文学フリマ書評の続きなのです。今日は毎号買っている破滅派さんの同人誌から。

「グッバイララバイ」 アサミ・ラムジフスキー

一読の価値あり。とても面白く読んだ。アンビエントミュージックはたしかに記憶に残りにくく、それだけにヒットするということは稀な音楽だが、それを逆手に取ったアイディアといい、語り口の巧妙さといい、読み終えるまであっという間だった。音楽が記憶に残るというのは、やはり情動に訴えるものがないと駄目なのだろうな、などとも思った。
細部まで緻密に構成された巧妙さが、まるで虚構とは思わせないほどリアリティを感じさせた。それは冒頭からアカデミックな批評を伴って書かれた言説が、強い説得力を持っていたからだろう。そこからごく自然に物語へと主導され、「乳児の記憶」なるアンビエントミュージックや「オラフ・シュテーゲマン」なる作曲者が実在したかのような逸話に仕立て上げられてゆく。その語り口が素晴らしい。いや、実在しますよ、と言われたら疑いもなく信じてしまいそうなほど、もっともらしい嘘をつくこと、騙されても思わず笑ってしまうようなフィクションこそ、文芸と呼ぶべき小説なのではないだろうか。最後に付記された「2070年」という件には、嘘だから信じちゃダメですよ、とでも言わんばかりの著者のしたり顔が浮かんでしまうのだった。

「妄想風俗店」 蒼井橘

客に妄想させるだけ、という見世物小屋的風俗なんてアイディアは面白いし、そこに勤める女性同士の諍いが楽しい。女性店主の耽美主義的馬鹿らしさとか、すれっからしの今風の店員とか、読者が覗いているような窃視の倒錯感がある。「ひゃくぱー」が「エスパー」に聞こえた、なんて思わず吹いてしまったし。
だが、ラストに破綻してゆくテクストが私には納得できないのだった。メタ的な壊し方がこの物語に相応しいとは思えない。そこは好き好きだろうが、期待しただけにとても残念に思った。

この同人誌はカラーが出ていて、創作小説以外にも散文詩だったりルポタージュだったりと、「メディア」という意識が高くて良くできているな、と思っている。つまりそれは市場を意識しているということなのだが、そこが他の同人誌と較べて私は好ましいと思う。現代文学はもう、マイナーストリームにあるのなら、このままサブカルのさらにニッチな場所で頑張ってもらいたいと思う。だが、某所で作っているというコミューンの記事は、正直に告白すると、気持ち悪さがあった。