〈これから開く四国霊場の花〉
高崎順子氏は著書『フランスはどう少子化を克服したか』について言う。
「子供は嫌がどれだけ愛情を注いでも、受け止めてくれるかけがえのない存在」
これには参った。
親の立場から、子供は親が自然に愛情を注ぐ対象、としか、考えなかった。
実は、子供のおかげで、親になった人が自分の心から愛情をどんどん引き出してもらえるのだ。
親はそうして愛情豊かな人間に育って行く。
子供は親を人間らしく育ててくれる。
可愛い仕草を見ると、可愛がる心が出てくる。
言うことをきかないと、憎たらしさに耐えて、子供のために、よいことができるよう仕向ける努力をする。
愛情は豊かになり、揺るがなくなる。
こう考えつつ自分の子育てを振り返ると、愕然としてしまう。
情けなくて涙も催す。
いったい、何をやってきたのか……。
女の子ゆえ、どう扱えばよいかわからなかった。
照れくさくて、スキンシップは苦手だった。
子供が喜べば嬉しいから、欲しいもの、必要なものは極力、与えるようにし、ときおり、妻から「甘やかさないで!」と注意された。
育てるというより、漠然とではあるが問題なく育っているとしか見えず、信念として特に何かを教え込むということもなかった。
事業に失敗し、家を失い登校できなくなった子供をこっそり、送って行き、心で〝済まない〟と合掌した。
進学については、「俺の子なんだから」と勝手に高慢でちんぷんかんな高望みをして困らせた。
そして子供たちはそれぞれ、はたらき、自分で伴侶を見つけ、自分たちで生きている。
自分はいったい、何をやってきたのだろう?
確かに〈食わせ〉はした。
しかし、充分に愛情を注いだとは口が裂けても言えない。
なぜなら、子供の悩みや苦しみや淋しさを共有し、その胸苦しさを共に感じ、自分も悩み苦しんだという記憶がないからだ。
仕事が忙しかったなどという言いわけが通用しない嘘であることは自分がよく知っている。
はたらき、遊んだのは〈自分の人生〉でしかない。
生きてきた時間のうち、〈子供や妻との人生〉はいったいどれほどあったろうか?
どれをとっても、子供との関係が薄い印象しかなく、それは自分が愛情豊かな人間に育っていないことを意味しているのではなからろうか……。
上記の本に書いてあるわけではないが、フランスでは、かつて、既婚の女性たちも着飾って社交界で華を競い、子育てを使用人へ任せっぱなしにしたことが暴力的な革命分子が育つ温床になり、王妃までも公開ギロチンにかけるという残忍な行為へ走らせたという。
だから、革命を二度と繰り返さぬよう宗教と情操の教育には充分に留意しているらしい。
この世を去りつつある団塊の世代の方々よ。
もしも、小生と似た感慨を覚えるならば、今からでも冒頭の言葉を噛みしめてみようではないか。
遅ればせながら、密かに愛情を注いでみたい。
子供や孫がいなかったり、子供にとって今さら親の干渉が不要だったりするならば、何かに愛情を注ごうではないか。
愛情が必要で、いくらでも受け止めてくれる対象は無限にある。
枯れつつある日々の中から、まだ、愛情という温かなものが流れ出てくるならば、それは心を豊かにし、生きがいが感じられ、罪滅ぼしを伴った〈生き直し〉になるのではなかろうか。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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