〈四国の霊場では、鳥居のある寺院が珍しくありません。写真はネットからお借りして加工しました〉
このたび、皆さんからたくさんのご質問をいただいたので、大まかにお答えしておきます。
ただし、これは一行者としての信念と、一寺院での実践を基にしたものであることを申し添えます。
Q:位牌の院の文字はついている方が良いのでしょうか?
A:位牌に書いているのは戒名です。
戒名は3つの熟語から成っています。
一番上にあるのは院号(インゴウ)で、魂の色合いが表れます。
真ん中にあるのは道号(ドウゴウ)で、故人がこの世で歩んだ道が表れます。
最後にあるのは法名(ホウミョウ)で、み仏の子として成仏への道を歩む名前です。
だから法名は、生きながらにして、み仏の子として生き直しを行う僧侶の僧名(ソウミョウ)と同じです。
こういうわけなので、当山では、お布施の金額にかかわりなく、3つの熟語をもってお戒名としています。
男性なら「~居士」。女性なら「~大姉」となります。
当山ではご本尊様へ祈り、降りるものなので、差別のしようがありません。
Q:「人の身になって思うこと」家族間では薄れて行く世の中になっています。
友への思いやりはどこへ、何でも見て見ぬふりは悲しいです。
なぜ、こうなってしまったのでしょうか?
A:そうですね、思いやりとは、誰かへ思いをやることで、それは、他人の苦しみや悲しみを〈他人(ヒト)ごと〉として放って人間らしい心の現れです。
本当は、それが濃密にはたらくはずの家族や友人に対してすら薄れてしまい、暴力事件や殺人事件は後を絶ちません。
とても残念なことです。
原因は2つあります。
1つは「自己中心的姿勢」です。
戦後の日本においては誰もが賢明にはたらき、奇跡の復興を成し遂げたのはよいのですが、自由競争の影の面として、個人を絶対視する感覚が強まり過ぎたのではないでしょうか?
それは、各国が発展を競う過程で資源をむやみと消費し、自然破壊・環境破壊を進め、このままでは地球がもたなくなるところまで来たことに似ています。
大問題に気づいた私たちは立ち止まり、身近な人間関係においても、国際的にも、あるいは学問や研究や開発など多様な分野においても、「共生」という唯一のあるべき姿を目ざすべきだと思います。
もう1つは「物質中心主義」です。
これもまた、何もかもが不足していた時代を乗り越え、豊かさを求める過程で、モノ金を求め過ぎた弊害ではないでしょうか?
しかも、自己中心とあいまってそれがあまりにも進んだために、わずかな〈持てる者〉はモノ金や地位や権力をひけらかして恥じず、勝者として謙虚さや奉仕の心を失い、多くの〈持たざる者〉は敗者として抑圧されるという、品性なく無慈悲な社会になりつつあります。
私たちが公正な社会で、共に幸せを感じつつ生きるためには、限られたモノ金が、智慧と思いやりによって適切に分配されねばなりません。
このまま自由競争の原理だけで突き進むめば、ケダモノの世界と同じになってしまいます。
私たちは、自己中心の心を恥じ、モノ金にとらわれず、「共生」の尊さやありがたさを忘れぬよう、修養に心がけたいものです。
Q:お墓等の相場は?
A:お墓は石屋さんの仕事なので、当山は直接タッチしていませんが、当山では、墓地の永代使用料込みで約60万円~80万円、100万円~120万円、150万円~200万円といった予算で建てる方が多いように思われます。
共同墓ならば、年間管理料込みで10万円からいろいろあります。
墓地に建っている現物をあれこれとご覧になりながら、信頼できる石屋さんへ相談されてはいかがでしょうか。
Q:檀家をやめる、やめさせないで困っていますが?
A:そもそも檀家とはダーナという布施を意味するインドの言葉であり、布施をする人や家のことです。
だから本来は、自発的に寺院を支え、その寺院に自分も家族もご先祖様も守ってもらうという、生きた関係をつくり、守る言葉でした。
しかし、時代の変遷と共に内容が変化し、ご葬儀とご供養しかしない寺院は、檀家さんへ自分の都合でお布施を依頼し、檀家さんは必ずしも意にそぐわない出費を迫られて困惑するといった面が顕わになりました。
托鉢の途中でそうしたご意見をたくさんお聴きした小生は、平成22年、「脱檀家宣言」を行い、河北新報にも掲載されました。
真意は、檀家をなくそうというのではなく、一旦、〈縛り〉でしかなくなっていた関係を、寺院も檀家さんも見直し、本来の〈自発性〉に立つ、奉仕と感謝の生きた関係を再構築しようと提案したのです。
そして、当山では、自由参加自由脱退のサポーター制度にし、そうした〈ゆかりびと〉の方々は自発的に「ゆかりびとの会」を作り、当山をお支えくださっています。
こうした本来の「檀家」の意義からすれば、そして、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」からしても、「檀家をやめる」のは自由です。
むろん、寺院が「やめさせない」などの強制はできず、離檀料の請求に応じる必要もありません。
布施という自発的な奉仕の思想に立つなら、生産活動を行わずこの世とあの世のご縁の方々を日々、お守りする寺院は、今までお支えくださった方が離れて行く時、これまでのご恩に感謝して送り出すべきではないでしょうか?
一方、これまでお守りいただいた感謝の心をお布施に表してご本尊様へ差し出すのも、檀家さんの貴い姿勢です。
いかがでしょうか?
Q:後継ぎ無しのお墓の祀り方は?
A:後継ぎはいないけれども自分が、あるいは夫婦で生きた証として、せめて一定期間だけでもお墓で眠りたいというご相談は多々、あります。
当山では2つのやり方でお応えしています。
1つは、「一代墓(イチダイボ)」です。
普通にお墓を造り、ご希望の期間が過ぎたなら、お墓を撤去して共同墓で永代にご供養するという方法です。
ペットも一緒のお墓を建て、とても安心される方々のお顔を見ると、小生も嬉しくなります。
もう1つは、賃貸墓(チンタイボ)です。
これは、転勤族の方々からもお問い合わせがあります。
また、墓じまいをする際には、共同墓に永代供養されれば問題はありません。
おりおりの年忌供養については、その都度、信頼できる寺院へ依頼して納得できる形のご供養をされればよいのではないでしょうか。
いずれにせよ、み仏のご加護は相手を選びません。
み仏の前で、ご一緒に考えれば必ず道は開けます。
どうぞ、ご相談をお申し込みください。
Q:これからお墓はどうなっていくのか?
A:埋骨の形は時代と共に変わって来たし、これからも変わって行くことでしょう。
ただし、スペインの思想家が「人間は、死者守(モリ)動物である」と言ったとおり、私たちは亡くなった人を決して放置できません。
まっとうな人ならば、必ず人間としての尊厳にふさわしい方法で祈り、納め、悼み、供養して行くはずです。
それは、非日常的な宗教的感覚であり、心を込めて行うことごとは、聖なる宗教的行為です。
問題はお墓の形よりも、宗教的感覚がどうなるかというところにあるのではないでしょうか?
人間の歴史が始まって以来、死は厳粛なものとしてとらえられ、死者は畏れられ、死の世界が表現されてきました。
およそ人間の住むところにおいては、塚を造り、絵を画き、塔を建て、祈ってきました。
そうして死と向き合うところに、日常生活を超えた感覚がはたらき、〈欲に追われ他者とぶつかる自分〉を超えた霊性が回復される体験を繰り返してきました。
死を契機としてはたらく霊性の光は個人の心を深め、文化を練り上げてきました。
その地点から戦争を否定する思想も行動も起こり、人類は全体として破滅せず歴史を刻んできたのだと思います。
私たちがお墓と死者のありようを真剣に考えるのは、霊性をはたらかせることに他なりません。
固定したお墓を守りにくいからといって、かけがえのない宗教的感覚までも忘れてしまうならば、それは人間が人間でなくなる過程になりかねません。
日本人の宗教的感覚は、聖地で、仏神や聖職者と共に、清浄で温かな空気を吸い、日常生活の汚れや穢れや疲れを落とし、いのちと心のはたらきをリフレッシュするという感じであると考えています。
ここを大切にし、宗教宗派でいがみ合わず、他の宗教を邪教として排除せず、独善的な主張でぶつかり合わないのが、明治までは神社と仏閣が並んでいた日本本来のありようではないでしょうか?
その方、その方なりの死生観を磨き、子々孫々のためを思い、最善の行動を目ざしたいものです。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8