〈救いを求めて〉
「あれこれと煩悩(ボンノウ)が多くて、悩みが絶えません。
私みたいな者は地獄行きでしょうね」
笑い話混じりでも、あるいは真剣な目でも、こうした質問は不断に続いている。
小生はこんなふうに応えたりする。
「自分が一つの生命体として生きたいと思う以上、煩悩はなくなりません。
でも、もし本当に、生きたいと思わなくなったなら、心は弾むでしょうか?
心が弾む毎日であってこそ、生きている甲斐があるのではないでしょうか?
問題は、どういう心がけで、どう弾むかにかかっています。
この〈どう〉をつかむためには、智慧が必要です。
知識ではありません。
それは、仏教を学び実践することによっても得られますが、決してそれだけが得る道ではないし、仏教徒なら誰でも智慧を身につけているわけでもありません。
多様な人生の多様なステージで、まっとうに、真剣にやっていれば、必ずなにがしかの形でつかめることでしょう。
なぜなら、それは自分の心の中に求めるしか得ようのないものだからです。
だから、悟りを得る方法として、『大日経』は『実(ジツ)の如(ゴト)く自心を知る』と説いています。
もちろん、〝こんな気まま勝手な自分の心に大切な智慧などあるはずがない〟と思うかも知れません。
自分は悟ったなどと公言する尊大な人の高慢さに比べたら、あなたの謙虚さは宝もののように貴いのですが、諦めてはもったいないと思います。
私たちは一人残らず、み仏の子です。
み仏からいのちと心を授かってこの世へ修行に来ている以上、心の核としての仏心は必ずあり、仏心を灯火として安寧と感謝で生きられるか、それとも憂き世の暴風雨に翻弄(ホンロウ)され、混乱と憤懣で生きるかは、仏心に気づくか気づかないかによって異なります。
そして、人生がさまざまであるように、きづくチャンスもさまざまです。
まっとうに、真剣にやっていれば、いかなる境遇でも、いかなる仕事をしていても、必ずチャンスは巡ってきます。
もちろん、気づくとは言え、これが仏心だと指し示せるものではありません。
ただ、深い感謝の念が特定の対象を超えて無限に広がり、あらゆるものと〈共に在る〉と実感され、自分を含めすべてが〈在る〉ことそのものに対して堪えきれないほどの愛おしさを覚えるようになれば、気づいた証拠と言えそうです。
そうなった時、もはや煩悩があるかないかは問題になりません。
自分の煩悩とその恐ろしさに気づいたならば、モグラ叩きのようにやっつけたいとイメージするのではなく、他者のよき生き方や、生きものたちが無心に見せるいのちの躍動に感応する心を錆び付かないようにしたいものです。
そして、お手本として学ぶ謙虚さを失わないようにもしたいものです。
そもそも私たちは、この世に生まれ落ちてから、いったい、どれほどたくさんのお手本のおかげで生きてきたのでしょう。
心のありよう次第で、アリも、コスモスも、新聞配達のおじさんも、ホームの駅員さんも、すべてお手本に見えてきます。
そうした意味で、み仏は究極のお手本です。
だから密教では、即身成仏(ソクシンジョウブツ)つまり、お手本に成り切ってしまおうとします。
自分の煩悩に気づき、これではいけない、情けないと意識する人は、大切なスタート地点に立っています。
その謙虚な気持を失わなければ、きっと周囲に〈仏心の輝き〉を発見することでしょう。
輝きを認めるすなおな気持を失わなければ、きっと自分もそうありたいと思うはずです。
そこから先は、それぞれのタイプや生きて来られた過程や、今の環境などにより、千差万別の形で〈方法〉を探そうとされることでしょう。
寺院へお詣りしたり、経典を読んだり書いたりするのも一つのやり方です。
どうぞ、自在にお考えください。」
人であれ、社会であれ、自然であれ、周囲にかけがえのない価値を感じ、自分がそのために役立とうとするならば、弾んでいる心のどこに煩悩があろうか?
煩悩即菩提(ボンノウソクボダイ…迷いはそのまま悟りでもある)とはこのことである。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM