今回の四国巡拝は今日で終わる。
前回、お遍路さんとして目立ったヨーロッパ系の方々、特に、自転車で回る若い方はほとんどいない。
多いのが僧侶に連れられた団参者だ。
女性のリーダーもいて頼もしい。
季節によって、これほど違うものかと驚く。
最大の難所とされる45番札所岩屋寺で、40代の僧侶に声をかけられた。
「どちらからですか?」
「宮城です」
即座に、震災の被害は?と返ってきた。
あちこちで幾度か一緒になった彼は三重県からやってきたらしい。
頭(ズ)が低く、自分より年上の20人ほどを巧みに率いている。
まことに好ましく思えた。
こういう人々が仏法を生かしてゆくのだろう。
さて、「修行の道場」である高知県が終わり、「菩提(ボダイ)の道場」愛媛県に入ったところで、菩提心(ボダイシン)について少々、お話をした。
お大師様が重要視されたこの言葉にはいくつもの意味がある。
要は悟りを開くことに収斂するが、それではますますわかりにくいので、小生はよく「まっとうに生きたいと願い、精進する心」と表現する。
湯川秀樹博士は、お大師様がこう願って生きた人であると指摘した。
「一日生きるとは、一歩進むことでありたい」
ならば、私たちは今回、どう一歩進もうか?
前回の巡拝では、「限られた時間内でしっかり思いを確立して歩くために、真言や御宝号を一区切りづつ丁寧に、ご本尊様とお大師様へ届けよう」と提案した。
その結果、当山のグループは他のグループとかなり、リズムの異なった唱え方をしながら歩いている。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、~」とバンバン、重ねてやらない。
「南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━、南無大師遍照金剛━━━」
もしかすると、声をかけてきた彼は、そんなところが気になっていたのかも知れない。
プロは他のプロが自分と違うことをやっている状態にすぐ、気づく。
さて、今回はそのちょっと先へ進みたい。
たとえば、最後の「南無大師遍照金剛━━━」が終わり、声が切れた先にやってくる静寂の数秒。
この<余韻>大切にしたいのだ。
そこは無限のスピードで思いがお大師様へと通じて行く時間であり、同時に、お大師様からも無限のスピードでご加護が返ってくる時間であると思う。
また、日常生活ではほとんど望めないほど意識が深まる貴重な時間だ。
運転手の滑田(ナメタ)さんにもご協力をいただいたおかげで、本堂の前でも、大師堂の前でも、唱え終わってから次の動作へ移る直前の静寂を共有できるようになった。
静寂と言っても、周囲で物音一つしないわけではない。
大きな声でお唱えする声が周囲に満ちていようとも、息を吐ききり、無呼吸の状態となった自分の心に必ず静寂がやってくるし、それは、心を合わせて修行しているメンバーには<気配>としてわかるのだ。
今回も貴重で、生きた修行ができた。
もしかすると、息が止まったままになり、この静寂に入りきってしまえば、安寧な成仏となるのかも知れない。