慧日寺を訪ねて迷い、高台を目ざしたら墓地の脇道へ出た。
車を草むらに停めた。
うっそうとした木立の奧にお堂が見えたので、「蜂に注意」と書かれた注意札のある山道を進むと視界が開けた。
そこは、菩薩とまで崇められた東北を代表する傑僧徳一の御廟だった。
格子戸越しに中を見ると、屋根まで届くような石塔がある。
素朴だが完成された形は、徳一の清々しくも揺るがない精神にふさわしいと思われた。
本尊薬師如来と徳一菩薩のご加護を願う住民たちはかつて、石塔を削って薬にしたという。
しばし、祈ってから低い方へ目をやると新しく豪壮なお堂がある。
そこは復元された新しい金堂だった。
さらに下ると旧本坊もあったが、祈られている気配はない。
近隣にある「道の駅」が平日とは思えないほどの賑わいを見せているだけに、あまりの落差が胸を冷たくした。
資料館では、地方創生加速化交付金事業と銘打たれた「磐梯とくいつ藝術祭」が開催中である。
それでいてこの閑古鳥。
お堂も仏像も仏塔もモノである。
目には入り、形も色も名前もわかるが、それだけでは、それが何であるかがつかめない。
求める心がなければ、モノに込められているものは感得できない。
祈りの場であるはずの神社仏閣が単なる観光地と化してしまうことの弊害は、中国共産党の観光資源でしかなくなったかつての聖地ポタラ宮を見るまでもなく、あまりにも明らかではないか。
私たちはいったい、何を求めているのだろう?
そして、社会は、〈本当に求められているもの〉が、求める人びとへ広く与えられるシステムになっているだろうか?
法務のために福島県へ入り、徳一菩薩を慕う心でひたすら慧日寺を目ざしたら、まっすぐ御廟にたどりついた。
思いがけず目にした五層の石塔と、御廟に続く道の脇に連なる五輪の塔が教えるイメージは、現在、進めている計画への大きな後押しとなった。
本当に求めるものとは、結局、自他の苦を抜き取り、自他へ楽をもたらすという二つの願いに収斂するのではないか。
自他の苦を曖昧にせず、叫ぶように祈りたい。
祈らずにはいられないところから祈れば、心中の仏心が開き始め、異次元の仏界からも手が差し伸べられる。
徳一菩薩に感謝しつつ帰山した。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA