志を持って介護職に就き、誠心誠意はたらいていると、自分自身の心や身体が〈あるべき状態〉に追いついていないと感じる場合がある。
そして、自己嫌悪に陥ったり、立ち塞がる壁の圧迫感に潰されそうになったり、あるいは、そもそも自分が仕事に不向きだったと諦めたりもする。
やらねばならない、やるべき仕事であることは重々承知し、準備万端整えたはずなのに、〝私にはできない〟と自分の何かがブレーキをかけてしまう。
自分が、〈はたらかねばならない自分〉と、〈はたらけない自分〉の二つに、引き裂かれそうになる。
やるべきことはわかっており、何ら問題なくはたらけるはずの自分であることを知っているだけに、この状況は辛い。
小生もそれに通じる苦しみを嫌というほど味わった。
托鉢を始めた頃である。
伝授された作法を身につけ、歩く以外の生きようはなく、歩く準備もできたのに、目的地へ着いて車から降りられない朝がある。
網代笠(アジロガサ)をかぶり、白足袋を履いても歩き始められない。
理由の一つが上記の方々と似ていた。
〝──こんな自分のままで仕事をしては嘘になる……〟
たとえば、出がけに妻と口論になり、時間がないので最後は怒鳴ったり、無視したりして強引に車を発車させた。
こんな心のままで、どうして善男善女からお布施をいただけようか。
玄関のチャイムが鳴り、托鉢僧を見て「どうぞ」と受け入れてくださる方々の多くは、合掌される。
もちろん、決して自分が相手から拝まれるわけではなく、目に見えぬみ仏の世界へ向かっての合掌ではあるが、自分がそうした場面に立っては申しわけない人間であることを誰よりもよく知っている。
しかも、お布施をいただいてよいのだろうか?
こうした疑問と葛藤は、さまざまな法務の場面に付きものだった。
人生相談もしかり、ご祈祷やご供養もしかり、〝こんな自分なのに〟という意識に苦しんだ。
とうとう耐えきれなくなり、どうすればよいか、師へ訊ねた。
答は簡単だった。
「あなたは、ご縁になるべき人としかご縁にならないのだから、結果はご本尊様へお任せして誠意を尽くせばよい」
この一言で雲は晴れ、托鉢行を続けているうちに一山の開基を迎え、文字どおりの無から現在の法楽寺が生まれた。
人生相談に訪れる善男善女のお話を聴き、この教えをお伝えすると、まじめであるがゆえに苦しむ人々にとって〈脱する〉ヒントとなり、心で手を取り合う思いになったりする。
私たちは、仕事に責任感を持つ時、自分にかかわってくることごとのすべてに対して、完璧な対応をしないではいられない。
しかし、私たちは、どこかに未熟な部分を抱えた〈未完成な存在〉である。
研究者、技術者、芸術家、宗教者、教育者など、いかなる方面であれ、仕事を突き詰めている人のほとんどがその真実を自覚しているはずだ。
米寿を超え、勲章を受け、功成り名遂げたはずの長老ですら「自分はまだまだ修行中」と言う。
それは謙遜と言うよりも、むしろ実感だと思う。
テレビドラマ『ドクターX』の大門未知子に人気が集まるのは、不可能を可能にする夢が実現されているからだろう。
ひとときの虚構が、私たちの行き詰まりを忘れさせてくれる。
言い方を変えれば、外からやってくる縁は無限であり、その中に、神ならぬ自分の力をもって、この上ない結果へ導き得ないものが含まれているのは当然なのだ。
そして、自分の意思ですべての縁を選ぶこともできない。
ならば、その事実を真実としてありのままに観るところから始めるしかないではないか。
ところが、問題を孕んだ責任感がその邪魔をする。
すべてをカバーしなければ満足できない、不安になる。
そこに、私たち自身の気づきにくい慢心が潜んでいるのではなかろうか?
師が「ご縁になるべき人」と言われたのは、「あなたが百点満点の対応ができる人」という意味ではない。
もしも今、誠心誠意の中でとった対応が客観的に見て70点であっても、それがいかなる結果をもたらすかは、誰にもわからない。
そもそも、〈未完成な存在〉が常に満点の行動をとれるわけがないのだ。
そんないいかげんなことでよいのか?
もしも手術が70点などということで許されるのか?
100点満点はたくさんあるだろうに。
こうした疑問や反論が考えられる。
それについてはこう答えたい。
たとえば、マスコミが流す医師や病院に関する〈成績〉などのデータは、見せられる私たちがそのまま丸呑みにできない事情を抱えている。
個人や私的な組織だけでなく、政府や役所ですら、よいデータを流したい。
マスコミは視聴者の耳目を惹き付けたい。
抜きがたい意思は必ず作意する。
もちろん、〈業界〉の外からは気づかれないように。
だから、〈うまい〉データは眉にツバをつけて眺める必要がある。
では、「ご縁になるべき人」とはどういう意味か?
おそらく、「誠心誠意の中で、互いに縁を生かし合える人」だろうと思う。
私たちは、〈うまくやる〉のではなく、〈誠心誠意やる〉以外、よき生き方はできない。
自分の至らない点は客観的に、冷静によく見つめ、向上心をもって進むしかない。
70点の自分が100点でないからといって〝こんな自分のままで……〟と苦しむのには微妙な錯覚がある。
そこには、〝自分は本来100点であるべきだ、その自分になっていないなんて〟という勝手な思い込みがあるのではないか。
よく考えれば、それは、誠意や責任感という皮をかぶった慢心というものではなかろうか?
プロ野球を眺めてみよう。
中には大谷選手のように時速160キロを超える直球が投げられる投手もいるが、ほとんどはそれよりも10キロ、20キロも遅い球で勝負し、堂々と仕事をしている。
人間としての能力の限界と、個人的な能力の限界は違うし、現実に生きる人間にとって現場の勝負では常に、自分自身の限界しか問題にならず、言いわけもきかない。
もしも誰かが〝自分が大谷のようなスピードで投げられない自分なんて〟と嘆いていたら、笑われるだけだろう。
誠心誠意以上の価値はない。
生きて年をとってみれば、誰にでもわかるはずだ。
うまくやったことなど、たかが知れている。
誠心誠意やったことは、消えない充実感や浄い誇りとなって生を支える。
〝こんな自分〟と思うのは誠意ある謙虚な人であり、まっとうに生きられる人だろう。
ただし、もう少し先も考えてみよう。
そうすれば、ありのままの自分で尽くす誠意こそが真実であり、〈もっとすばらしいはずの自分〉という幻想からきっと脱することができるだろう。
そうなれば誠意に磨きがかかり、人間としての自力も増すに違いない。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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