〈豪華でどこか哀しい……〉
お大師様は説かれました。
「法力(ホウリキ)の成就に至るまで、且(カ)つは教え、且(カ)つは修せむ。
また、望むらくは、その中間(チュウゲン)において、住処を出ず、余の妨げを被(コウム)らざらんことを」
(法力の成就を期し、弟子たちへ指導し、修法を行います。
成就の時まで、ここに籠もることをお許しくださいますよう)
薬子(クスコ)の変に際し、堂内に籠もって国家の安泰と世間の平安を祈るべく、嵯峨天皇に対して決意を披瀝した文章です。
そこには「七つの難事をうち破り、四季の巡りが順調で、国を護り、家を護り、自他共に安寧な暮らしができますよう」と述べられてもいます。
重要なのは「法力の成就」です。
この身このままで、み仏そのものになることを目ざす密教においては、み仏から受けるお力を法力として発揮できるようになって初めて、一人前の行者です。
外科医が実際に執刀ができるのと同じことで、小生の修業時代にはテストもあり、なかなか厳しいものでした。
それは虚仮威(コケオド)しの見てくれを競うものではなく、誠心がご本尊様と感応すれば自然にはたらきだすのです。
ただし、別段、超能力者である必要はなく、むしろ、修法に感応する素直な心が求められます。
お大師様はそれを信修(シンシュ)と説かれました。
信じて修行するという誠心と実践が必ず結果をもたらします。
さて、仏法によれば私たちは等しく、み仏の子です。
イメージとしては、心の奧に蓮華の蕾を持っているようなものです。
『大日経疏(ショ)』は説きます。
「およそ、人の汚栗駄心(カリダシン)の状(カタチ)、なおし、蓮花の合してしかも、いまだ敷かざるがごときの像(スガタ)なり」
(人間に具わっているカリダ心の形は、蓮花の花びらが合わさっていて、まだ開かないような姿をしている)
鎌倉時代の頼宝もまた、明確にしています。
「心には二つある。
一つはチッタ心、これは慮知する心である。
二つはカリダ心、これは中実の義である」
心には二種類あり、一つは思慮し分別し、何かを知るといった日常的にはたらく、いわば表面の意識のようなものです。
もう一つは、人間存在の中心をなすものとして深く蔵された心で、いわば無意識の世界のようなものです。
後者として、普段は蓮華の蕾の姿で眠っているのが仏心(ブッシン)であり、仏心が開き、表面の意識が蓮華の姿ではたらくならば成仏です。
私たちは誰でも尊い蕾を持っています。
それを開くためには、開いた先達としてのみ仏を仰ぎ、自分の身体と言葉と心を、み仏に合わせる必要があります。
仏道修行はこうして行われますが、在家の方々もまた、蕾を持っておられるので、いつでも〈生き仏〉になれる可能性があります。
思いやる心が動き、誰かの何かが見捨てられずに手を差し伸べる時、私たちの身口意(シンクイ)は自己中心を離れてはたらきます。
その時は、まぎれもなく生き仏になっています。
最近、思い知らされました。
駅のホームに立っていたところ、到着した電車の乗降口から降りたおばあさんがよろけ、転びそうになりました。
ほんの2、3メートル先のできごとです。
小生は、アッと思ったものの、とっさに両手の荷物を置いて前進することができず、立ったままでした。
おばあさんに続いて降りた中年の女性が2人がかりで支え、ことなきを得ましたが、修行不足をつくづく実感しました。
怠けていれば、怠けたようにしか身体は動きません。
心も同じでしょう。
蕾に気づき、学び、イメージトレーニングをしていればこそ、蓮華を開かせる可能性が高まります。
私たちの心をつかむような誰かの行動はすべて、蓮華を開かせた、あるいは開かせかけた成功例と言えましょう。
謙虚に、至心に学びたいものです。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0