悲観と楽観についての興味深い研究がある。
私たちは、もしも、自分の車が盗まれる可能性を10パーセントと考えている場合、実際の確率がデータで示され、それが予想と異なっていたならば、どう反応するだろうか?
○5パーセントなどと確率が低い場合
私たちは、「ああ、そうか」とデータを理解し、自分で思う可能性をそれに合わせる。
この時、情緒などを司る前頭葉のはたらきは高まっている。
○20パーセントなど確率が高い場合
私たちは、データにあまり関心を持たず、自分で思う可能性を変更しない。
この時、情緒などを司る前頭葉のはたらきは弱まっている。
前者は、先行きを困難と考える悲観的傾向を持つ人たちである。
後者は、先行きを甘く見る楽観的傾向を持つ人たちである。
生命倫理などを研究している京都大学のカール・ベッカー博士は指摘する。
「楽観主義とは選択的にデータに注意を払わないことによって保たれているのである。」(以下、『愛する者は死なない』より)
「楽観主義者とは将来のできごとを見越せない人であった。」
「軽度のうつ病の人たちは、たいてい将来を正確に予測するのである。」
「悲しみに浸っているときの思考や感情といったものは真理値を持つように思われる。
つまり、悲嘆はこの世界を正しく捉えているのである。」
流行している〈前向き思考〉が孕む問題を考えさせられる。
もしも、目の前に現実の厳しさや将来の危険を示すデータがあっても、「なあに、大丈夫さ」と見過ごしてしまえば先行きは危うい。
悲しいできごとが起こっても、「さあ、早く忘れよう」と陽気に騒ぐだけでは、前頭葉を発達させない。
それは、他者の悲しみや苦しみや辛さに思いが至らず、大人になれないということを意味する。
私たちは、あまりにも、前向きになれないということについて、悲観的に考えすぎてはいないだろうか?
なかなか前向きにさせない悲嘆の状態を、悪くばかり考えてしまう必要はない。
悲嘆にあればこそ、それ行けどんどんの時期には気づかなかった他者の悲しみに胸をうたれ、ひっそりと咲く一輪の花にたとえようのない愛しさを感じるかも知れない。
高々と掲げられた〈明るい未来〉の宣伝と裏腹に、たった今、歪んだ社会の谷間で呻いている人々の声を聴けるならば、私たちは、まっとうに生きる道を踏みはずさないだろう。
カール・ベッカー博士は、さらに踏み込む。
「病める魂は、われわれが望むようにではなく、あるがままに世界を見ているのである。
神経心理学の言葉を借りれば、健全な心よりも病める魂の方がより幅広い経験や情報を処理している。」
今年の1月18日、新聞各紙は国際NGO「オックスファム」の発表を報じた。
「2015年に世界で最も裕福な62人の資産の合計が、世界の人口のうち、経済的に恵まれない下から半分(約36億人)の資産の合計とほぼ同じだった。」
「報告書によると、上位62人の資産の合計は1兆7600億ドル(約206兆円)で、この5年間で44%増えた。
一方、経済的に恵まれない下から半分の資産は41%減ったと指摘。
この結果、下位半分の資産額は10年には上位388人分に相当したが、14年は上位80人分、15年は62人分と、格差は拡大しているという。
背景には、賃金など労働への対価支払いより、株式配当など資本の投資への還元が手厚くされていることなどがある。」
このデータ、事実を前にして、私たちはどうして楽観主義でいられようか。
こうした世界的システムの中で、それを牛耳る人々が〈望むように〉無限の成長神話が語られ、消費を煽る映像が流され、私たちの耳目を惹き付けている。
しかし、一人一人の人間にとっての真実は足元にしかなく、病める魂はそれを〈あるがままに〉見ているがために病んでいるのだ。
もちろん、耐えきれない悲嘆には思いやりの手が差し伸べられねばならない。
しかし、いつでも「前向き」が前提無しに要請され、皆がそうあれば世の中はバラ色になるかの如く語られることは異様である。
自他の悲しみを通して見える世界にこそ真実があることを忘れないようにしたい。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM