小雨の日、東京駅のタクシー乗り場は、カサをさす人もいて長蛇の列だった。
ようやく乗り込み、「今日はすいぶん混んでいましたね」と中年男性の運転手に声をかけたら、苛立った声で思いも寄らぬ答が返ってきた。
「朝鮮人のやつらですよ。
日本の税金で喰っていながら、好き勝手にやり放題、言い放題、嫌になると電車へ飛び込む。
おかげで、日本人が酷い迷惑を受ける。
左翼に占領されているマスコミは報道しないけど、連中の自殺はしょっちゅうですよ!」
どこかで飛び込み自殺があり、そのせいで電車の運行が狂ったらしい。
そうですか、と静かに相づちを打った途端、話は自衛隊へ飛躍した。
「日本の自衛官は、いざという時に備えて、カエルなども喰うような厳しい訓練をしているんです。
この間、ドイツの将校が来て、こんな過酷なのは見たことがない、ってびっくりしていたらしいですよ。
日本の潜水艦もレーダーでつかまえられないほど凄くて、アメリカと合同訓練をしていた時、アメリカの軍艦に察知されないで近づき、すぐそばで急浮上してびっくりさせたらしいですよ」
それにしても、客の気持や考え方を一顧だにしない勝手な言いよう、落ちつきのない運転、酒か麻薬の影響すら感じられるほどの荒(スサ)み方だ。
聞くに耐えず、「ちょっと失礼」と小さく声をかけて携帯電話にとりつき、避難した。
それでも、ぶつぶつと何か呟き続け、電話が切れるのを待つように言葉の速射砲は再び唸りを上げ、降車するまで車内に乱射され続けた。
ようやく深呼吸をし、いつもより弱々しく歩き出しながら、つくづく思った。
アメリカのトランプ候補も、フィリピンのドゥテルテ大統領も、あまりに問題のある品性と人権無視の意識を持っていながら、一定の指示を集めているのはこうした人々がいるせいだろう。
もしもさっきの運転手がアメリカへ行けば何を叫び、フィリピンへ行けば何を行うか、容易に想像がつく。
その性向は、ISに勧誘されればテロリストになる可能性にも通じている。
要は〈不寛容〉なのだ。
自分も含めて、この世が多様な人々の多様な思いや行動によって成り立っている事実を認識し、自分を尊重するのと同じようにお互い、尊重し合いながら生きるという感覚が薄いのだろう。
なぜ、不寛容が問題なのか?
それは、自分からも、他者からも救いを奪うからだ。
神ならぬ人間が「救われる」とは畢竟(ヒッキョウ)、「赦される」ことに他ならない。
それは「解放される」と言い換えることもできよう。
時代劇で、侍に斬られそうになった町民が「堪忍してください」「勘弁してください」と土下座するシーンがある。
自分が正しいと言い張ったり、あなたを非難したりはしませんから、どうぞお怒りをお鎮めください、いくらかは私のいのちも考えてください、と頼む。
白黒をつけるのではなく、いのちを奪おうとする者に赦しを請い、危機から脱しようとしている。
これが人間同士における救いの究極的姿ではないか?
この時、相手に何が求められているのか?
それは心の寛(ヒロ)さ、容(イ)れる度量、つまり寛容さなのだ。
私たちの心から寛容さが薄れるとどうなるか?
自分に都合のよいところで思考停止になり、聞く耳を持たなくなる。
高圧的で真の対話が成り立たなくなる。
私たち一人一人がこうなれば、社会を動かす立場の人々も必ず、同じ傾向になり、権力者の独善的な動きを認めたりもする。
それは社会から思慮深さや、穏やかさや、円滑さなどを奪い、さまざまな問題で私たちを袋小路へ追い込み、対立と不安とをもたらす。
嵩(コウ)じれば暴力や戦争にもつながりかねない。
「人の振り見て我が振り直せ」である。
ときおり、自分が不寛容になってはいないか、指導者が不寛容ではないか、不寛容な人物を権力者に選んではいないか、振り返って見たい。
自他が救われつつ生きるため、省み、誡(イマシ)めたいものである。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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