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 長田弘 の詩に『アッティカの少女の墓』がある。
 葉桜の季節、氏は、2500年前に亡くなった少女の死について書かれた薄い本(『或るアッティカの少女の墓』)を思い出し、この詩を書いた。
 そこに決定的な一文を見つけた。

悼む とは、
 死者 の身近に在って、死者 がいつまでも
 人間らしい存在であれとねがうことだった。」


 氏は、古代ギリシャのアテネあたりで生き、死んだ少女の名前も顔も知らないが、悼む 気持になった。

「死のなかでなお生きつづける親身な精霊。
 死者 は、時を忘れて生きる存在にほかならない。


 見知らぬ少女が悼む 気持に応じて「親身」な存在になっている。
 いや、親身に感じたからこそ悼む ことができたのだろうか。
 いずれにしても、「生きる存在」としてそこにいる。
 明らかに、 がある。

 カール・ベッカー 博士は『愛する者の死とどう向き合うか』において説く。

続いていく は慰めや安らぎ をもたらすということは事実です。
 慰めは、絶望や落胆に直面するなかでの快楽や楽しみや喜びを意味します。
 慰めは痛みの中に入り込みますが、痛みを取り除くわけではありません。」

多くの宗教は、悲嘆 する人を慰めるものです。
 それは、自己を超えた実在とつながっているという感覚のうちに見いだされます。」


 長田氏は によって何を得ているのか?
 いかなる痛みが慰められたのか?
 氏は『探すこと』をこう締め括っている。

「人間は探す生き物。
 探し探して無に終わる、空しくも愛すべき生き物。」


 氏にとって徒労の人生を生きることそのものが悲哀なのだろう。
 氏の悲哀が見知らぬ少女の「親身な精霊」によっていっとき、慰められている。
 その精霊が「生きる存在」ならば、まさに、「自己を超えた実在とつながっているという感覚のうち」にあることになる。
 詩『アッティカの少女の墓』は、まぎれもなく宗教の世界を描き出した。

 特定の神や仏がいるから宗教なのではない。
 人生につきものの悲哀に沈み、不条理に翻弄されて呻き、その反面、表面の意識が薄れ、混濁する中で感覚が研ぎ澄まされる時、立ち現れる異次元なるものと交流する世界。
 そこが宗教の世界であろう。
 幾多の行者、聖者が体験をもとにして示したイメージこそが仏神であり、御霊である。
 私たちは文化の息を吸いながら、言葉とイメージの追体験をする。
 そこには聖なるものがあり、異次元の聖性は、私たちの悩みも苦しみも悲嘆 も薄れさせてくれる。
 聖性を持った世界をもっと知り、もっと救われたいならば、学び、実践するしかない。
 そうして学び、実践するのが、いわゆる宗教である。

 深く悼む まごころは、芸術や宗教への扉を開くかも知れない。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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