世界中を席巻すると目されているポケモンGO
には、私たちの心や文化や人間関係を破壊しかねない、いくつもの問題があると思う。
1 背景
の問題
私たちは、周囲の世界を、〈ありのまま〉にはとらえていない。
関心のある対象物は目に入りやすく、そうでないものは入りにくい。
刺激を受ける目はカメラのような役割を果たしても、それを認識し、記憶するまでの間に、必ず〈選択〉が行われる。
もしも、視力を失えば、景色は〈在る〉はずなのに、見えなくなる。
認識という観点からすれば、景色は〈無い〉に近くなる。
もちろん、現実
的に景色は在るので、目をつぶって歩けば何かにぶつかってしまう。
小生はときおり、意識的に目をつむって歩いてみたりする。
見えている状態と、見えていない状態と、二つのちがいと自分の反応などを観察するためだ。
自分が生きて動いている現実
と、周囲の世界を、あらためて眺めることには意義がある。
さて、ポケモンGO
は言うまでもなく、架空の世界をつくり出し、環境と自分との間にそれを置くシステムである。
しかも、ゲームの面白さによって、意識や関心は圧倒的に架空の世界へ向く。
周囲の景色も、人も、単なる〈背景
〉に過ぎなくなる。
しかし、現実
に在るのは〈背景
〉とされてしまっている景色や人であり、生命活動はそこにしかない。
寝起きする布団も家も、顔を洗う水道も、つけるテレビも、呑む牛乳も、会う人も、勉める仕事場もすべて、そこにある。
もしも、これらを〈背景
〉とし、架空の世界が主人公である時間が長くなるならば、私たちの精神生活はどうなるだろう?
必ずや、〈背景
〉となってしまうリアルな世界への関心は薄らぐ。
背景
となっていること事態がすでに、関心の強さにおいて二次的であることを意味している。
リアルな世界と真剣に取り組んでいるつもりでもなお、悲喜こもごもの日々を送っている私たちが、心の活動をリアルな世界から遠ざけることは恐ろしい。
2 フィルター
の問題
ゲームはおもしろいから楽しみもし、没頭もする。
おもしろいと感じることそのものには善も悪もない。
いのちを活性化させるという利点もある。
しかし、そのおもしろさに執着することは問題だ。
おもしろさが主人公になれば、人間としての霊性
は、はたらきにくくなる。
おもしろいと楽しんでいる状態を抑制するものや止めるものがあれば、それは邪魔ものとなり、たやすく敵ともなるのは、各種の依存症に見るとおりである。
お釈迦様以来2500年、私たちは、リアルな世界をいかに観て、霊性
という満月にかかる群雲をいにして払うかという難問に取り組んで来た。
群雲、すなわち、各種の執着心などとして現れる煩悩
(ボンノウ)が、私たちへ苦をもたらすことを知ったからだ。
私たちはすでに、煩悩
という〈真実
世界〉から隔てるはたらきを抱えており、それをどうするか、まだ解決の入り口に立ったばかりなのに、今般、隔てるフィルター
を新たにつくったのではないか?
現実
の景色や人間を〈背景〉としてしまうこと。
現実
の景色や人間に真実
を観るはずの心の目に、新たなフィルター
をかけること。
まず、この二つがポケモンGO
に潜む根本的問題であると思う。
※以下もご覧ください。
ポケモンGOが抱える根本的問題(その2) ─視線・場・映画館─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5158.html
)
ポケモンGOが持つ共生の可能性(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5159.html
)
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