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 お大師 様が唐から帰国し、京の都へ入ってから5年経った頃、下野国(シモツケノクニ…栃木県)にいた伊博士公(イハクシコウ)から文章を書いてくれと頼まれました。
 日光山を拓いた勝道上人 (ショウドウショウニン)の業績を称えて欲しいと言うのです。
 勝道上人 は当時、人跡未踏だった日光山へ入って中禅寺を開基し、大旱魃(カンバツ)の年には降雨法(コウウホウ…雨を降らす祈祷)を修して人々を救っていました。

 お大師 様は会ったこともない上人のために「勝道碑文」を書きました。
 そこには印象的な言葉があります。

「人の相知ること、必ずしも対面して、久しく語るのみにしも在らず。
 意通 すれば、則ち傾蓋 (ケイカイ)の遇(グウ)なり」


(人と人とが互いを知るのは、必ずしも、直接会って長い会話をすることによるのではない。
 心が通じ合いさえすればよいのであって、それは、たまたま出会った同士が、頭にかぶっている笠を傾け、外し、語り合うだけでも可能なのである)

 昔の日本の道路はオープン、対面者はぶつからないように気をつけながら歩いていました。
 文字どおり「袖振り合うも多生の縁」、すれ違う人々は皆、前世からの因縁で袖を触れ合うと感じていたので、現代人の感覚とはずいぶん違っていたはずです。
 そうした精神風土から、この「傾蓋 (ケイカイ)の遇(グウ)」という言葉が生まれたものと思われます。

 何かのきっかけで、ちょっとした挨拶を交わした同士がピンと来る状況は、現代人なら男女の出会いくらいしか思い浮かばないかも知れません。
 もちろん、お大師 様の頃も、それは変わらずあったでしょうが、この言葉は何よりも相手の〈人物〉を知る、あるいは〈人品〉を認め合うという意味合いが強いように思われます。
 恐らく、お大師 様は上人の行状を聴き、若かりし頃に山野で修行した自分の体験をよみがえらせつつ、碑文を書かれたのでしょう。

 一度も会ったことがなくてすら、思いをこらせば「意通 」が生じるのです。
 思えば、亡くなられた方へお授けする戒名 をご本尊 様からいただく時も、「意通 」が決め手です。
 僧侶の祈りがご本尊 様へ届き、あの世へ通じてこそ、お戒名 が降りて来ます。

 「意通 」は、きっと霊性 のはたらきなのでしょう。
 霊性 が活き活きとはたらいていればきっと 「傾蓋 (ケイカイ)の遇(グウ)」に恵まれるのでしょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊 虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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