
私たちは人の死に際し、その魂の行方 を気づかっているだろうか?
死んだ途端になぜ、もう大丈夫、と言えるのだろう?
「これまでご苦労様でした。
どうぞゆっくりお休みください」
あの世 へ行けば安寧が待っていると考える根拠は何か?
ただ、そうあって欲しいと思うだけで、ことを済ませてはいないか?
私たちはほとんど、この世 でさんざんやらかし、結末をつけられないことごとを山ほど残してあの世 へ旅立つ。
子供の教育、夫婦の約束、仕事の責任、人間関係の信義などなどに関する問題行動や失敗は、真剣に数え始めたらきりがないはずだし、年をとれば無論、多くを忘れてしまってもいる。
自分がそうなら、旅立つ人もあまり変わりはなかろう。
だからこそ、お釈迦様の高弟で神通第一と称される目連 尊者(モクレンソンジャ)は、亡き母親がいかなる境遇にあるか、気づかった。
神通力で観たところ、意外にも餓鬼界(カキカイ)に堕ちており、自力では救いようのない尊者はお釈迦様に救済法を請い、雨季の修行を終える行者たちへ供養 し、祈るよう指導された。
それが現代にまで伝えられ、日本ではお盆 の供養 会とドッキングしているが、そもそも、尊者が〈魂の行方 〉を気づかったことに由来するという事実は重い。
たとえ愛憎こもごもあったとしても、哀惜を抱きつつ送るのならば、その行く先であるあの世 を深く想わずにいられない。
お大師 様は愛弟子の死に際し、言葉を手向けた。
「覚りの朝(アシタ)には夢虎(ボウコ)無く、悟りの日には幻象(ゲンゾウ)莫(ナ)しと云うと雖(イエド)も、然れども猶(ナオ)夢夜(ボウヤ)の別れ不覚の涙に忍びず」
(覚れば、何があっても、夢で見る虎を恐れぬように心乱れず、目には見えていても所詮幻でしかない象を気にせぬように、眼前のものごとに心乱れることない。
とは言うものの、貴男との死別がこの世 のかりそめのできごととは解っていても、不覚にも涙が流れてならない)
天皇の前で即身成仏(ソクシンジョウブツ)の法を結び、帰依(キエ)を受けたほどのお大師 様であってなお、涙を流された。
そして、貴人であれ庶民であれ、死者への供養 を生涯、欠かさなかった。
死んだからといって、善行(ゼンギョウ)も悪行(アクギョウ)もすべてがチャラになりはしない。
私たちは、自分がやってきたことの結果が〈今〉、すべて出てはいないことを知っている。
だから、〝あと少し〟と頑張れるし、〝まだ謝りに行っていない〟と倫理感を保てる。
しかし、その〈今〉は永遠に続かず、否応なく、自分の意思とはほぼ無関係に終止符が打たれる。
──残りの結果はどうなるか?
この〈未だ出ていない結果〉こそが、死に行く人の深い意識に蓄えられているものだろう。
それを知っている目連 尊者は、気づかい、怖れ、供養 を行った。
それを知っているお大師 様は、気づかい、哀しみ、供養 を行った。
私たちは、亡き人をふと、想う。
命日はもちろん、夕陽が空を橙色や紫色に染める時、ヒグラシが鳴き始める頃、お彼岸やお盆 の時期。
そして、気づかいが兆したならば、すなおに供養 を行いたい。
静かに合掌する、真言やお経を唱える、供養を申し込む、供養会に参加する。
いずれであれ、魂の行方 に想いをいたす時、それは私たちの仏心が動き、あの世 の仏心と共鳴し、共に業 (ゴウ)が清め られる兆しなのだろう。
ふとした〈その時〉を大切にしたい。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらから どうぞ。
「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y
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