
晩年の分析心理学者カール・ユング は、テレビのインタビューで、問われた。
「あなたは神を信じますか?」
彼は沈黙の後、はっきりと答えた。
「私は知っています」
彼は幼少の頃、牧師である父親から言われていた。
「お前はいつも考えたがっている。
考えちゃならない。
信ずるんだ」
父と子(キリスト)と聖霊が一体であるとする三位一体説に関心を持っていた彼は、父親の説明を待っていたが、正直な父親はこう言った。
「ここは省略しよう。
だった、本当のところ私には少しもわからないんだから」
彼は、生涯にわたって、そのことを知ろうと努力したという。
このあたりの事情について、心理学者河合隼雄 は指摘している。
「よりよく考え、より多く知ろうとする態度によってこそ宗教性は深められると彼は主張したいのである。
従って、事実に関係なくただ信じているのではなく、自分の経験的事実に基づいて彼の宗教は成立しているのである。」
「彼が『知る』と述べているのは、『それ自体は未知のある要因と対峙している』ことを知っており、その『未知のある要因』を一般の同意に従って『神』と呼ぶことを意味している。
そしてその『未知のある要因』と対決し、その現象を慎重に観察することこそ宗教の本質であると考えている。」
7月9日(土)、当山の寺子屋では「これからの生き方」という講演会を行った。
そこで講師を務めてくださったフリーアナウンサーで朗読家の渡辺祥子 氏は、こんなエピソードを紹介した。
東日本大震災から半年経った9月11日、彼女は、ある被災地の広い葬儀会場で司会進行を行った。
正面に向かって左手に立った彼女の左手は御霊の祭壇、右手は会葬者の席である。
そこで彼女は不思議な体験をした。
左側の空気が明らかに暖かい。
彼女には、その理由がはっきりとわかった。
〝ああ、亡くなった方々の暖かい思いが私たちを見守っていてくださる〟
彼女は「知った」と言えるのではなかろうか。
やみくもに信じようとする、あるいは信じる態度は危うい。
なぜなら、道理を捨てるかのような姿勢に人生上の無理があるのはもちろん、道理という動かしがたい知性がそれなりにはたらいた時、信じ、頼っていたはずの仏神などがいつ、消滅するかわからないではないか。
また、小生のような宗教者の立場からすると、そうした態度は、仏神に対して無礼であり、真実から離れる道であるように思える。
もちろん、私たちは、何かを〈信じないではいられない〉心理状態になる場合がある。
たとえば、今村昌平監督作品の映画『黒い雨 』は、広島で被曝した人々が時の経過の中で一人、また一人と死んでゆく様子を描いたが、そのラストは印象的だ。
原爆症に悩みつつも健気に生きていた美しい娘矢須子は、ついに倒れ、救急車で運ばれる。
付き添う青年悠一は呟く。
「きっと治る、きっと治る」
見送る叔父の重松は、心中で思う。
「もし、向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。
白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気は治るのだ」
結果を示さずに映画は終わる。
私たちにとって、すがる情緒も、観る知性も共に真実だ。
必要なのは、それらが新鮮にはたらきつつも、いずれにも一方的に流されない主体性の確立ではなかろうか。
講演会でコーディネーターをつとめてくださった白鳥則郎 東北大学名誉教授は、合理性に彩られた近代の弊害を克服するためのキーワードを示した。
「共生 環境」「共生 社会」である。
コンピューターに代表される合理性だけではなく、生身の人間が持つαとの共生 である。
ユング の「未知のある要因」も、渡辺祥子 さんの「亡くなった方々の暖かい思い」も、悠一や重松の〈懸ける気持〉も、このαではなかろうか。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0
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