
〈自分自身で自分の「あるべきよう 」を考えよと説かれた明恵 上人〉
宗教 とかかわって失敗したという人生相談 は絶えない。
悪因縁 を説き、善行が順調に進むよう、幾度も修法してきた。
二つのポイントを記しておきたい。
○大切なのは、用いる道具がどうかということよりもむしろ、道具をどう用いるかである
仏教は、教えが心身の血肉となる前は、数ある道具の一つでしかない。
キリスト教も、イスラム教も、自由主義も、社会主義も、博愛主義も、果てはナルシシズムすらも道具である。
包丁が料理に役立つ反面、人殺しの手段にもなり、火が清めと共に火事をもたらしたりもするように、道具には多様な可能性がある。
そして、多くの場合、結果への道を決めるのは、用いる人間の心である。
ある時、僧侶に裏切られたAさんが嘆いた。
「大学で学び、こんなにも深い仏縁に恵まれながら、何の縁で、このようなことをされるのか。」
縁となった僧侶が、娑婆的現実に関して、常々の言動とはまったく別人のような面を露呈し、周囲が困り果てたのだ。
ある時、新興宗教 に引きずり込まれそうになったBさんが嘆いた。
「これだけが正しい、他は邪宗だ、これだけをやれば幸せになれる、他は捨てと教え込まれ、苦しくなりましたが、お釈迦様はそんなふうに説かれたのでしょうか?」
有名な宗教 団体なので行ってみたら、カルトや蟻地獄のような恐怖感を覚え、大変な目に遭いながらも、ようやく脱出したという。
仏教に関して言えば、仏教経典を用いているから、まっとうな人であり、まっとうな教団であるとは言えない。
教えの内容よりもむしろ、教えをどう用いているかが問題だ。
標語は飾りであり、善良な信者たちが教祖や幹部の隠された〈狙い〉に気づかぬ例は山ほどある。
もしも、宗教 を説く人や教団との縁を深めようとする場合は、教えの〈内容〉から離れ、その人自身が一人の人間としてどう生きているか、その教団が社会内の存在としてどのように社会とかかわり、どのように運営されているか、その〈ありよう〉を客観的に眺めてみたい。
まず、本分をもってきちんと自立できていなければいかがなものか。
まず、教団か、それ以外の世間か、二者択一を迫るようでは危険だ。
お釈迦様は、バラモン教と思想的に相容れないにもかかわらず、弟子たちへ、行者として清浄なバラモンたちへ学べと説いた。
お大師様は、他の宗派と争わず、むしろ多様に学びつつ、より高いものを求めよと説いた。
ダライ・ラマ 法王は、宗教 的立場を超えた地点で、互いに認め合い、互いを思いやろうと説いている。
このあたりから相手をよく見れば、失敗しにくくなることでしょう。
○人は知っているとおりには生きられない
自分を振り返ってみよう。
知っているとおりに生きているか?
それができているなら、誰かを苦しめなかったはずだ。
誰かと疎遠にならなかったはずだ。
何かを奪わなかったはずだ。
何かを失わなかったはずだ。
私たちは、〈どう生きるべきか〉をおおよそ、知っているはずなのに、なかなかそうは生きられない。
一方、確かなのは、〈こう生きたい〉と思う方向へ進もうとしていることだ。
つまり、あるべきよう 、ではなく、やりたいよう、に生きるのが私たちの現実だ。
今から約800年前に活躍した明恵 上人(ミョウエショウニン)は生涯、月輪観(ガチリンカン)の修行を欠かさず「月の行者」とも呼ばれた。
その遺訓は、「阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)」の7文字に貫かれている。
「人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)と云(イ)う七文字を持(タモ)つべきなり。
僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至(ナイシ)帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
此のあるべき様を背く故に、一切悪(ワロ)きなり。」
(人は、「あるべきよう は」という7文字を心に刻んで忘れないようにすべきである。
出家者は出家者のあるべきよう 、娑婆の人は娑婆の人のあるべきよう 、国王は国王のあるべきよう 、臣下は臣下のあるべきよう、を考え、それに背かぬようにせねばならない。
この、あるべきよう、に背くために、一切の悪事が起こるのである)
上人の言葉はこうも読める。
「ものの道理や人の道を知っているつもりでいるだけでは危うい。
自分は自分の置かれた立場なりにどうあるべきか、その道理や道を常に問い、得た答に合わせる努力をし続けなければならない。
それを怠るところから、この世のすべての過ち、悪行が起こってくる」
また、気をつけねばならないのは、こうも説かれている点である。
「仏も戒を破りて我を見て何の益(エキ)かあると説い給(タマ)へり。」
(お釈迦様も、戒めに背いていながら、悟った人を崇めたところで何にもならない、と説かれているではないか)
出家者と在家者を問わず、決して、拝めばまっとうに生きられるのではない。
まっとうに生きるためには、自分自身を省み、外に学び、内に仏心の声を聴き、それに従う自分自身の努力が欠かせない。
仏神に祈るのは、〈凡夫はいかに努力しようと何かが足りない〉からである。
知っているとおりにはなかなか生きられない私たちだからこそ、いかに生きるべきかを常に問い、実践し続けねばならないのは、上人が説かれたとおり、置かれた社会的立場にかかわりなく共通の真実だろうと思う。
このあたりから自分をよく見れば、失敗しにくくなくことでしょう。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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