
〈カラスの背中には〉
政治家 に失言 は〈付きもの〉らしい。
だから、国民も聞き慣れ、特に日本人は多様性をそれなりに認める感覚があるので、「誰にでも失敗はあるさ」とばかりに、〈謝れば終わり〉としてきたように思える。
それはそれで一つの文化であり、社会内で収拾がつかない先鋭的な対立や混乱が起こらないでいることは評価したい。
しかし、そもそも政治家 の失言 は、庶民レベルの失敗や、うっかりとは違う。
言ってはならない本音を、言ってはならない立場にいることを知っていながら言ったという事実の持つ意味は大きい。
だから、その内容が政策 の実現や選挙での勝利に障碍になるからと、早々に引っ込められても、国民は、「そうですか」「仕方がない」と済ませるべきではないと思う。
政治家 が国民に注目されるような失言 は、常々、本人が掲げている主張と異なっていたり、国民の多くが望んでいることとは相反するような内容を含んでいればこそ注目される。
つまり、そこでは、〈常々、本人が掲げている主張〉は信念ではなく仮面であることが露呈している。
また、〈国民の多くが望んでいること〉を本人は決して望んではいないことも証明している。
今回、看過できないと思うのは副総理・財務相である麻生太郎 氏の発言である。
6月17日、北海道小樽市で開かれた自民党支部大会において氏は講演し、こう語った。(各種メディア共通の内容である)
「お金を何に使うかをぜひ考えてほしい。
金は使わなきゃ何の意味もない。
さらにためてどうするんです?」
「90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていました」
「私のばあさんは、一切貯金はせず、金は息子と孫が払うものと思って、使いたい放題使ってました」
なお、氏は終末期医療に関して、平成25年1月にこう発言し、撤回している。
「政府の金でやってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。
さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」
翌平成26年12月には少子高齢化と社会保障に関して、やはり問題発言の釈明に追われた。
「子どもを産まないのが問題だ」
こうした一連の発言を眺めてみると、ここにあるのは明らかな本音であり、釈明や撤回で〈なかったこと〉には決してできない大きな問題が見えてくる。
その大きなものは三つある。
一つは、政策
という看板と、政治家
の本音との乖離であり、政治家
が政策
の実現にいのちがけで取り組んでいないという欺瞞である。
政権を取り、政権を担い、権力を行使し、国を思い通りに動かしたいがための看板でしかないという恐るべき実態である。
もう一つは、看板通りに国策が進まない理由を、権力者である自分ではなく、世間の心構えにあるとする根本的勘違いと傲慢さである。
世間の人々は、90才になってなお、生きている自分の周囲にさまざまな問題を抱えているからこそ、「老後が心配」なのであり、本当は死んだ後についてすら、心配なのだ。
当山の人生相談には、障碍を抱えたお子さんやお孫さんのいる方、貧困に苦しむ方など、生きて行くのが辛い家族を抱えた方々も訪れる。
お年寄りが安心して死ねないのも、溜めてきたお金を簡単には使えないのも、女性が子供を産めないのも、もちろん個別の理由はあろうが、それがこれだけの社会的現象になっていることは、本質的な責任
が個々人にではなく、政府、政治にこそある証拠ではないか。
仏教的視点から言えば、社会的な悪しき共業(グウゴウ)が、個人的な善業(ゼンゴウ)を押し潰しているように見えてしまう。
その真実に気づかぬ政治家
が政府の中枢にいることは恐ろしい。
もう一つの問題は、こうした政治風景をもたらした選挙形態である。
麻生太郎
氏のみでなく、これまで、騒ぎになっては消されてきた政治家の失言
や暴言をふり返って見ると、この問題の深刻さがわかる。
小選挙区
制によって、政党の支持は政党が決めた政治家の支持とイコールになるしかない。
つまり、選挙民は〈政策
〉は選択できても、候補者の〈人格〉は選択できない。
政党と候補者の都合が100パーセント、投票行動を決定しており、候補者の人となりを知っている選挙民は決して〈人物〉を選択できない。
一方、政治の流れを観ていると、政策
など、紙切れ同様の扱いしか受けてはいないと思える。
政党は簡単に政策
を変え、政治家は旗印を変え、所属する政党を変える。
もちろん、「政治は生きものである」以上、ある程度は当然の現象だ。
ならば、選挙民は、どうやって政治家へ希望や夢を託すべきだろう。
どうやれば、託せるのだろう?
そのためには〈人物〉を選ぶことが最も大切であり、〈人物〉を選べない小選挙区
制が、選挙民の納得できない諸問題を生んでいるのではなかろうか?
思えば、日本特有の「首相の解散権
」が、結果的に嘘をついた政治家の免罪符になっているようだ。
議員の生殺与奪の権を握っているたった一人の首相は、国会を解散するというとてつもない件につき、一切の制約を受けず、いかなる嘘をついても構わないことになっている。
解散風が吹くと、国会内だけでなく、マスコミ界も一種の賑わいを見せる。
解散があってもなくても、より〈意外な〉結果になると、また、一段の盛り上がりを見せる。
だから、誰も「おかしい」とは言わない。
しかし、世界に目を転ずれば、少数のエリートに権力が集中することの危険性を知悉している国々では、解散権
を縛っている。
権力者が自分の都合を第一にして勝手な行動をとることのできない仕組みにしている。
首相の嘘について国民が盛り上がることなどあり得ず、冷静な投票行動によって判断をくだす。
一方、日本では、総理大臣の嘘が政治劇として許される。
だから、「1000パーセントありません」と言いながら正反対のことをやる政治家も現れ、人気を博す。
国民は、劇を楽しみつつ、あまりにも問題の多い政治風土をつくっている。
国民はもうこのあたりで、立ち止まり、考え、行動すべきではなかろうか。
選挙では、政権なり政党なりがその時点まで何をやってきたか、これから何をやろうとしているかが、誠実に国民へ伝えられねばならない。
そして政治家は、自分をかける政策を語り、選挙民はその人物が負託に応えられるかどうか、よくよく見極めねばならない。
そのためには、政党と候補者の都合のみによって立候補者が絞られるのではない、新たな選挙制度が求められる。
また、政策なり、人物なりについて大きな問題が起こったならば、政治家は〈説明〉で逃れようと汲々とせず、きちんと〈責任
〉を取るべきだろう。
この稿は、麻生太郎
氏への個人攻撃ではない。
氏には気の毒だが、その発言に含まれている膨大な問題を愚考させていただいた。
氏と支持者の方々には不快極まりなかろうが、政治家の宿命として、勝手な稿をお許しいただきたい。
こうした稿を書かねばならないことは極めて残念だ。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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