
6月14日付の日刊スポーツは、東京都議会の議運委理事会へ出向いた舛添都知事 の訴えを報じた。
「子どものことを言うのはなんですが、高1の娘と中1の息子がいます。
毎朝、テレビに追いかけられ、泣きながら帰って来る。
妻にもカメラを回して『やめてください』とガーガーと叫んでいる映像ばかり流して『変な女』と報じられます。
週刊誌やワイドショーは基本的人権 を考えてもくれない。
子どもも殺害予告をされている。
1カ月前も今も、子どもを守るために、すぐにでも辞めたいけど、都政を混乱させないようにやってきた。
マスコミに真実と違うことを言われても、訂正もしてくれない。
人格的に辱められ、失う物は何もない。」
古代ローマの詩人ウェナリウス の言葉「パンと見世物 」を思い出した。
私たちは、生きられる社会になっただけでは満足できない。
サーカスめいたものが必要なのだ。
為政者側からすれば、この二つを与えておけば、民衆から反逆されにくいという考え方が成り立つ。
だから、選挙を迎えた政治家は、とにかく「経済」と「福祉」を声高に叫ぼうと腐心する。
一方の「見世物」は、マスコミが〈獲物〉に食らいついているなら好都合である。
ただし、獲物の不行状が為政者にとばっちりをもたらしては困るので、その場合は幕引きのタイミングについて深謀遠慮をめぐらす。
まずいできごとは、世間から早く忘れてもらいたい。
選挙に響かぬよう、権力が陰らないよう。
ちなみに、この数年間だけでも、いったいどれだけの不行状があり、「反省」が繰り返され、速やかな幕引きが行われてきたことか。
あげくの果ては、政府与党内で事実上の箝口令(カンコウレイ…口封じ)まで行われてきたのは衆知の事実である。
さて、都知事の言葉である。
いくらなんでも、ここに含まれている事実については、都民であっても「お前にそんなことを言う資格はない」と言えないだろう。
私たちに、そこまで彼とその家族を見世物にしてあざ笑う権利はないと考えるのがまっとうな感覚ではなかろうか。
そもそも、彼に対して「けしからん!」と拳を振り上げる私たちの中で、会社や役所の公金を私的に使ってはいないと断言できる人がどれだけいるだろう。
社員が給料をもらっていながら喫茶店でだべってはいないか。
社長が出張先で愛人と会ってはいないか。
私たちのほとんどは〝隙あらばうまくやろう〟と思っているはずだ。
こうした後ろめたさ、あるいは、うまくやれないうっぷん、さらに、彼が庶民には不可能なほどあまりにもうまくやったことへのやっかみが一大ブームを引き起こしたとも思える。
その陰で、彼と家族は、明らかに基本的人権 を侵害され、誰も「基本的人権 を考えてもくれない」という絶望的状況に落とされている。
彼がここまできてしまった原因の一つは想像がつく。
誰も彼に「言いわけをやめろ」と忠告してくれなかったのだろう。
プライドと自分可愛さが世間的に通用しないところまで来ている危険性を指摘してくれなかったのだろう。
娑婆での失敗から立ち上がろうともがいていた頃の小生には、苦く、同時に感謝しきれない体験がある。
ある友人から、面と向かって「言いわけをやめた方がいい」と言われた。
失敗してもなお、あるいは自分が犯した失敗を心底では認めたくないがために、プライドと自分可愛さが自分の言動を醜くしていることに、きっと、自分だけが気づかないでいたのだ。
もしも、あの一言がなかったならば、と思うと、冷や汗が出る思いである。
いかに優秀な彼の人生でもきっと、いくつかの失敗はあったはずだ。
そこで誰からも「言いわけをやめろ」と言ってはもらえなかったのだろう。
今でも冷や汗を禁じ得ない小生は、彼に対し、口が裂けても「自業自得だろう」とは言えない。
彼の都知事としての行動がどうであるかは都民、国民の判断が待たれる。
ただし、彼と家族の人権が無視されている日々には大きな疑問を禁じ得ない。
私たちはここまで〈見世物〉を楽しむ権利はないし、私たちの怒りや嗤(ワラ)いに含まれている自己欺瞞に気づかないならば、私たちは今なお、古代ローマの人々と何ら変わらないと言うしかない。
これでいいのだろうか?
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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