
恋愛をしている時は、「もしも彼を失ったなら、私は生きていられない」などと思う。
実際、恋愛の破綻で人生 を狂わせてしまう場合がある。
仕事に打ち込んでいる時は、「仕事ができなくなったら早めに死のう」などと思う。
そして、仕事から離れた途端、腑抜けのようになってしまう場合がある。
柔道一直線の時は、「俺から柔道をとったら何も残らない」などと思う。
ケガや病気などで闘えなくなり、絶望 が人生 への熱意も消してしまう場合がある。
しかし決意も熱意も絶望 も、いずれも〈その時点での人生 観〉でしかない。
自分の人生 にこれから訪れるシーンをすべて脳裏に描き出せる人はいないし、未知のシーンで自分がどう考えるかをあらかじめわかっている人もいない。
私たちの人生 の基本は割合、単純だ。
次々と現れるシーンにおいて、私たちは、それまでの考え方をつないで行くか、それとも新たな考え方が起こるか、それともそれまでの考え方に磨きをかけるか、それだけである。
自分自身が銃殺刑を宣告され、執行の直前に特赦で助かったドストエフスキー は『罪と罰 』でラスコーリニコフへこう言わせている。
「どこで読んだんだったけ?
なんでも死刑を宣告された男が、死の一時間前に言ったとか、考えたとかいうんだった。
もしどこか高い岸壁の上で、それも、やっと二本の足で立てるくらいの狭い場所で、絶壁と、太陽と、永遠の闇と、永遠の孤独と、永遠の嵐に囲まれて生なければならないとしても、そして、その一アルシン四方の場所に一生涯、千年も万年も、永久に立ちつづけなければならないとしても、それでも、いま死んでしまうよりは、そうやって生きたほうがいい、というんだった。
なんとか生きていたい、生きて、生きていたい! どんな生き方でもいいから、生きていたい!
……なんという真実だろう!
ああ、なんという真実の声だろう!」
夏目漱石 も短編集『夢十夜 』の第七夜に、海へ飛び込んだ男の心を描いた。
「自分はますますつまらなくなった。
とうとう死ぬ事に決心した。
それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。
心の底からよせばよかったと思った。
けれども、もう遅い。
自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
しかし捕かまえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
自分はどこへ行くんだか判らない船でも、
やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」
私たちは落胆し、絶望 する時がある。
そして、「人生 はこのまま続く」あるいは「人生はもうおしまい」などと思う。
しかし、実際は、死なない限り、〈一瞬後〉が必ずやってくる。
それが何であるか、そして、その時に自分が何を感じ、何を考え、何を思い、何を語り、何をするかは決してわからない。
行き詰まり、絶望 したなら、こう思いたい。
〝──これは〈今の〉考えなんだ……〟
こうして〈今〉と見る瞬間、絶望 している自分を眺める客観的な自分が登場している。
それはきっと、ラスコーリニコフのような気づきを与え、「夢十夜 」の失敗をさせないはずだ。
私たちは、自分の人生の〈次の瞬間〉を知らない。
生きている者として生きてみるしかない。
何という救いだろうか……。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y
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