
〈いつでも、どこでも瞑想し、生き仏だった明恵上人(ミョウエショウニン)〉
人生相談 に来られたAさんから訊かれた。
「仏教 を信じれば幸せ になれるんですか?
お坊さんは皆さん幸せ なんですか?」
こんなふうにお答えした。
デカンショという言葉を現在の高校生や大学性の諸君は知っているだろうか?
自分は何者か?自分は何のために生きているのか?なぜ戦争はなくならないのか?といった人生の根本的な問題に悩み、デカルト、カント、ショーペンハウエル などの哲学者や聖人賢者たちに答や救いを求めずにいられない若者たちは、一昔前、こう唄った。
「デカンショー、デカンショーで半年暮らす
よいよい
あとの半年ゃ、寝て暮らす
よーいよーい
デカンショー」
そして、到底、理解できそうにない哲学書などを読みあさった。
その一人、ショーペンハウエル が辛辣なことを言っていた。
「純粋な僧侶は最高の栄誉に値する存在である。
けれどもほとんど大抵の場合、僧衣は単なる仮装なのであり、この仮装のかげに本当の僧侶がひそんでいることは、あたかも。仮装舞踏会の場合におけると同じように稀なのである」
日本の僧侶も、厳しい指摘をした。
平安時代後期に真言宗を立て直した興教大師(コウギョウダイシ)である。
「名を比丘(ビク)に仮って伽藍(ガラン)を穢し 形を沙門(シャモン)に比して信施を受く」
(名ばかりの出家修行者として寺院に住み、形だけ出家修行者に似せて信仰を受け、布施を受ける)
本ものの僧侶だからといって聖人君子ではない。
本ものの僧侶でありたいと決心し、袈裟衣を穢すレベルの修法であっても、未熟を懺悔してあきらめず、本ものでありたいと願い、精進して止まないのが本ものの僧侶ではなかろうか?
ところで、ショーペンハウエル はこうも言っている。
「自分の幸せ を数えたら、あなたはすぐに幸せ になれる」
自分の霊性 、仏性 (ブッショウ)に気づこうとする仏教 は、「自分の幸せ 」を数えさせる教えかも知れない。
出家したか娑婆にいるかに関係なく、本ものの仏教 徒であろうとしてあきらめないのは、幸せ になるための極めて有力な方法の一つであろうと思う。
小生が幸せかとも訊ねられ、答えた。
「まあ、人様なみではないでしょうか」
全然、気がきかない返事だった。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA
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