「花曇り 捨てて悔なき古戀や」
芥川龍之介 は「偶感 」としてこの句を詠んだ。
ほぼ『羅生門 』の頃である。
花曇り は薄ら寒さともあいまって心を重くする。
そんな日に思い出す終わった恋は、活き活きとしていない。
けだるさの中で〝もういい〟と思える。
花曇り の頃、終わりかけた水芭蕉を観に行った。
人気もない夕刻、小生と入れ替わりに、薄いカーディガンにジーンズ姿の地味な女性が駐めた車から伏し目がちに降りて、「こんにちわ」と消え入りそうな挨拶をしつつ森へ向かった。
青い軽自動車は、たった一人の主人を降ろし、ポツネンとそこにいた。
彼女は何かの〈悔い〉を置きに来たように思え、振り返ったらもう、暗さを増しつつある路しか見えなかった。
「熱を病んで櫻明りに震へゐる」
芥川龍之介 は「病中」としてこの句を詠んだ。
ほぼ『地獄變 』の頃である。
桜明かり とは、桜 の白さが夜の闇に浮かび上がっている様子である。
普段、人は夜に眠る。
しかし、病気によって悪寒(オカン)が走ると、夜中でも目が覚めてしまう。
そんな時、昼の爛漫たる勢いとは別に、観る人とてない夜でも存在を主張している桜 の白さが目に入り、〈夜の活動〉を感じる。
芥川は『地獄變 』の中で横川(ヨガワ)の僧都にこう語らせている。
「如何(イカ)に一藝一能に秀でやうとも、人として五常(ゴジョウ)を辨へねば、地獄に墮ちる外はない」
五常とは、儒教が説く人間の道である。
焼き殺される娘を目にしながらなおも画を描き続けた男にある業(ゴウ)を我が身にも感じていたのではなかったか?
震えは、身体に起こり、心にも起こっていたのではなかったか?
「夜櫻や新内待てば散りかゝる」
芥川龍之介 は「即興」としてこの句を詠んだ。
ここで言う新内とは新内節の師匠を指す。
同時期の作品である。
「遠火事の覺束(オボツカ)なさや花曇り 」
この覚束(オボツカ)なさが塚本文との結婚につながるが、作家の業(ゴウ)は続く。
「新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプするかわからない。」
グラスプとは、ぐっと掴み離さないことである。
新婚なのに、夫婦で暮らす喜びが生きる柱とならず、創作活動が自分を惹き付けてやまない状態に苦しみ始める。
芥川は、長男の出生にすらとまどう。
「何の為にこいつも生れてきたのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。」
芥川には創作しかない。
人間が題材なのに、人間との暮らしはいつも、不如意(フニョイ)を生む。
人間と暮らす人生はあまりにも困難に満ちている。
「人生は地獄よりも地獄的である」
「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」
やがて芥川は自殺する。
小生も彼の苦しみは理解できる。
自分の役割に生き、死ぬしかない。
それ以外、罪滅ぼしのしようがないのだ。
他のことごとは「ごめんなさい」と言うしかない。
しかし、何らの才能を持たない小生の役割は、お釈迦様もお大師様も説かれた〈利他〉以外にない。
ご縁の方々に「この世の幸せとあの世の安心」を得ていただくことがすべてである。
人生の地獄をいくばくか観ても、まだ、生きる余力は残っている。
それが尽きるまで使い果たしたい。
桜 を眺めた。
無心に、麗らかな生と静かな死を告げている。
生があって死があり、死があって生がある。
散る花びらは舞うもよし、散り敷くもよし。
ありがとう。
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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