今年も3月11日を迎えた。
遠く首都圏からの献花も受け、東日本大震災あるいは原発事故関連でいのちを落とした方々のご冥福を祈り、供養会を行った。
また、影響から抜けきれず苦しむ数十万人にものぼる方々の安寧をも祈った。
新聞に載った文章のうち、三つを記録しておきたい。
なお、原文にはアンダーラインなどがない。
一、 3月11日付の河北新報に掲載された「いまだ手の届かぬ希望」(編集委員寺島英弥氏)
「作るほど赤字。誰が担えるのか」。
昨年12月の衆院選の最中、石巻市北上町の農家の落胆を聴いた。
2011年3月11日の津波から復田事業は進むが、大半の人が営農を諦め、農家は70戸の水田を背負った。
だが、昨年産米の米価(概算金)が暴落。
農業復興の支え手たちは苦境に陥った。
被災地の浜でも、売り上げが震災前の「8割に回復した」という水産加工業者はわずか40%-との調査結果が7日の本紙に載った。
「工場を再建したが、市場を失い、人も増やせない」と石巻市で取材した業者は語った。
「同業者と手を組んで商品をパックにし、共同で販路開拓中だ」とゼロから荒波に立ち向かう。
三陸特産のワカメや昆布は昨春の収穫期、値段や注文が落ち込んだ。
東京電力福島第1原発事故に伴う「風評の影響」と宮城、岩手両県内の漁協関係者は口をそろえた。
根強い風評は被災地の南も北も巻き込む。
福島第1原発では先月、新たな汚染水流出が明るみに出た。
建屋屋上にたまった雨水が海に流れ、東電や経済産業省は事実を1年公表しなかった。
「コツコツ積み重ねた試験操業への信頼を崩された」と相馬双葉漁協の人々は抗議の意味を込め、待ちかねた春のコウナゴ漁を延期した。
除染土の黒い袋があちこち野積みになった福島県飯舘村。
家々や農地の除染は進むが、復田の多難さ、風評への諦め、米価暴落が村民の帰村意欲を揺るがせる。
仮設住宅の生活は4年を数え、「帰れない」「帰らない」の葛藤が続く。
避難先に新居を求める人も増えた。
5度目の3月11日を迎えた被災地の風景だ。
かさ上げ工事や公営住宅の建設は進むが、生業はいまだ戻らず、人の流出は止まらず、福島第1原発の廃炉、汚染水問題は先が見えない。
苦しさを抱えながら、誰もが希望を手探りしている。
「復興をどんどん進めていくには、日本の経済を強くしていかなければ」。
昨年12月、安倍晋三首相は衆院選の第一声を相馬市の漁港で上げ、経済政策アベノミクスの成果と効用を説いた。
「廃炉」「汚染水」に一言も触れず。
ある漁業者は「よその世界の話のようだった」と振り返った。
被災地が求めるのは、アベノミクス景気のおこぼれではない。
絡み合い山積する難問解決への責任ある支援だ。
・アベノミクスは新自由主義と呼ばれる経済政策であり、「自由競争により先頭に立つ者がどんどん成功を重ねて行けば、やがてはその恩恵が裾野へも広がる」という発想による。
被災地に必要なのは「おこぼれではない」。
今日を生き、やがて死んで行く被災者へ手を差し伸べることがこの4年間、毎日、悲痛な叫びを伴って求められてきた。
寺島氏の訴えは、果たしてしかるべき立場の人々へ届くのだろうか。
二、 3月10日付の朝日新聞に掲載された「原発の危険性に向き合う社会を」(元政府事故調委員長・畑村洋太郎氏)聞き手は長野剛氏、質問の欄は「――」で表示した。
――原発を動かすなら「事故は起こる」とはっきり言うよう主張されています。
以前から「事故はない」と言うのはおかしいと薄々思っていました。
そしたら、やっぱり起こった。
社会全体が、原発の問題を自分の問題として考えようとしてこなかったのです。
事故がないから大丈夫、審査しているから安全だ、とみんな自分の見たいところだけを見ていた。
そういう文化をつくっておきながら、事故が起きたら誰かを悪者にして、終わりにするのは間違っている。
・私たちは、本当に、心から、私たち自身の姿勢を省みなければならない。
ごく一握りの覚者を除いてほとんどの人々が、事故は〈ないはず〉と思ってきたのではなかったか?
警鐘を発していた研究者もジャーナリストも詩人も隅へ追いやられ、私を含む一般国民は、産業界と政府が示すバラ色の恩恵にしか意識を向けていなかった……。
ああ、何ということだろうか。
何度、悔い、嘆き、被害者となった方々へ詫びても足らない。
こうした私たちは今、万が一〈もう一度〉があったなら日本はなくなるだろう、と本気で考え、怖れ、語り、行動しているだろうか?
どんなに準備しても,想定から外れたことを原因とする事故はこれからも起こります。
「起こりません」といい切るよう求めるのも間違いだと思います。
――事故調報告書では、関係者の危機感の希薄さも指摘されました。
事故対策の仕組みはあっても、目的の共有が全くできていませんでした。
規制やマニュアルをつくったら、おしまい。
決めたことが実行されなければ意味がない。
炉心を冷やす非常用復水器が動かせたと思いこんだこともそうです。
雷のような轟音(ゴウオン)が響くはずなのに、現場はその知識すらもっていなかった。
作動させる訓練をしている国では常識だったのに、東電はやらず国も文句をつけなかった。
技術に向き合う当たり前のことをしていません。
なんで「安全です」といえたのか不思議でしょうがない。
原発は外国からもってきた技術で、日本は生みの苦しみを経ていない。
JCO臨界事故(1999年)を調べた米専門家は「日本の技術者に自分の考えをいくら聞いてもいわない。本質的なことを見る人がいない」と事故を心配していた。
そのとおりになった。
――委員長当時、事故の再現実験が必要と言いながら実現しませんでした。
当時、世の中は反応しなかったし、予算もとれていない。
「先生、それなら自分でやってください」と事務局に言われ、途中で断念の宣言をしたんです。
実験はいまからでも必要です。
なにが起きたのかをきちんと確かめなければ。
新たな視点に気づき、対策に役立つことがあるはずです。
事故調は、事故の被害の実態に迫り切れなかった。
放射線の被害も積み残しになりました。その後の検証も不十分です。
――事故調の提言は生かされているでしょうか。
全然生かされていない。
今は規制のハードルが上がったほかは、事故前と同じ状況に思えます。
避難計画も実施可能かはわからない。
実際に30キロ圏の住民全員を計画通り動かしてみるくらいのことをやったうえで、原発を動かすというべきです。
・そもそも「安全」とは、事故が起ころうと、担当者は適切に対処し、周辺住民は避難し、やがては事故を収束させる準備ができているということではないか?
その準備は〈確認〉されていなければならないのではないか?
ならば、〈避難訓練の伴わない避難計画は、その時点ではまだ、ほとんど机上の空論に近い〉と考えるべきではなかろうか?
これまでの4年間で、原発周辺30キロ圏内の住民が避難する訓練を行った自治体は一つでもあるか?
実際は首長をはじめ多くの住民が実現可能性を疑っているにもかかわらず、「避難計画ができたから大丈夫です」といったい、誰が責任を持って宣言できるのか?
原子力を続けるのなら、危ないものは危ないと正面から向き合う社会をつくる必要があるはずです。
・国民の意識と発言と行動が問われている。
悲惨であり惨(ムゴ)いと言うしかない境遇におられる方々と向き合い、巨大な不条理を前にすると、自分たちの安全は自分たちで構築し、守らねばならないと強く思う。
三、ジャーナリストの志と良心を示した3月11日付の「河北春秋」
書棚がひっくり返って雑多な本が波打っているのを片付け始めたのは、震災からだいぶたってからだった。
かすかに見覚えのある本を見つけた。
土木学会が出した新書判の『津波から生き残る-その時までに知ってほしいこと』
▼奥付を見ると2009年の発行だった。
津波の恐ろしさと生き延びる知恵が、震災の1年半前に出たこの小著には、研究者たちの手でほとんどすべて書いてあった。
震災後に言い尽くされた迅速な高台避難の重要性はむろんのこと
▼東日本大震災の翌未明、徐々に明るみを増してゆく早朝の平野に、惨たる光景を見た。
思い出すだけで、4年たっても胸の動悸(ドウキ)が速さを増す。
無数のがれきと汚泥の中に、大勢の犠牲者が冷たくなって横たわっていた被災地
▼言語に絶する状況を前に、家族にまだ会えない不安と共に、悔しさと敗北感で立ちすくんだ。
土木学会の本のような警告に接しながら、津波襲来の可能性と災害への備えを訴える記事を十分に書けなかった。
そのふがいなさ
▼さまざまな思いに白い灰をそっとかぶせ、埋(ウヅ)み火のようにして生きている-被災者の多くの感慨に違いない。
何年たっても、壮絶な体験への心の整理などつくはずもなく、原発の廃炉と被災地の復興という進行形の大震災の中で、今日を迎える。
・地方紙の魂ここにあり、と思う。
がんばれ、東日本大震災の翌朝も届いた河北新報!
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらから どうぞ。
「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y
[投票のご協力をお願いします。合掌]


にほんブログ村


