平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ
法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
それがテキスト「ダライ・ラマ
『死の謎
』を説く」である。
第三章 カルマの法則
2 平常心の心得
○初期の段階は、師
なしで自己を鍛えよ
「来世を生きるために自己を鍛えるには、かならずしも師 が不可欠であるわけではない。
むしろ、初期の段階においては、あえて師 なしで取り組むことを勧めたい。」
「師 に頼らず、一人で自己を鍛錬するについては、ふたつの有意義な点を指摘することができる。
まず、一人で学び、修養を積めば、よりよき師 を見分けるに充分な知識と経験を得ることができる。
次に、知識と経験とが充分に備わっていれば、師 の教えに簡単に満足してしまわずにすむ。」
「したがって、一人で励み、それがある程度の高さにまで至ったなら、はじめて師を求めればいい。
修行 の第二段階に入るための。」
若い日、私は人生の目標を見失って彷徨った。
あちこちの寺院や宗教団体を訪ね、他の大学の講座へもぐりこんだりした。
自分で食うようになっても、心の根無し草状態は続いた。
その時代は、ただ、霧の中にいたようだったが、もしかすると、「一人で自己を鍛錬」していたのかも知れない。
人々の師であるたくさんの賢者に会ったが、自分にしっくりくる方との出会いはなかなか訪れなかった。
この時期は、自分にとっての「よりよき師を見分ける」訓練になっていたのかも知れない。
そして、人生の暗転と共に唯一の師として立ち現れた方から指導を受け始めた時、一日も欠かさず、疑問がわいてきた。
師はたった一つの疑問も軽んじず、必ず教えをくださり、それはとりもなおさず修法の伝授となり、行者の血肉をつくった。
このこともまた、行者へ対して手順通り行われる「師の教え」に「簡単に満足してしまわず」に済んだと言えるのかも知れない。
ふり返ってみると、なかなか答の出ない問題意識 を持ち、決してそこから離れずに苦しんでいたことが実質的には「初期の段階」だったのだろう。
20年の迷いを経て師に出会った。
そこで、自分ではようやく〈始められた〉と思ったが、実は、み仏が「修行 の第二段階に入る」時をもたらしてくださったのだ。
人生は実に、わからない。
キーワードは問題意識 ではなかろうか。
最近、北海道から人生相談にご来山された方がある。
Aさんは寺院の息子として仏事になじみつつ育ったが、どうしても嗣ぐ気になれず、寺院はとうとう住職 である父親の意図しない形で運営されるようになったことが深い罪悪感として離れない。
親戚縁者に顔向けができないとも言う。
申しあげた。
「嗣がなかったのはAさんの良心がさせたことであり、立派な決断でした。
住職 のイスに座れば食えると考えず、出家が自分に向いているかどうかを見極めたことは、きっと、周囲から評価される日がくることでしょう。
Aさんが宗教や寺院を軽んじていないからこそのできごとだからです。
それに、寺院がどうなるかはさまざまな因と縁によるものであって、Aさんが嗣がないのは因縁の一つに過ぎません。
辛さに耐えつつ、自分、父親、寺院、親戚、世の中などをよく観て、この世の〈ままならなさ〉に立ちすくむことは、真の宗教心が目覚めるきっかけの一つです。
いつの日か、生まれ育った世界へ戻ろうとする気持になるかも知れませんよ」
不条理 や無常 や宿命に立ちすくみ、人生に対する深い問題意識 が湧いてきた時は、眠っていた霊性 が震え始めているのだろう。
震えを抱えつつ生きているのが「初期の段階」であり、そこを過ごせばいつか「修行 の第二段階」がやってくるとは、何という救いだろうか。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらから どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらから どうぞ。
「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8
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