平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ 法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎 』を説く」である。

第二章 輪廻 転生 (リンネテンショウ)の法則

2 転生 の条件

○悪しき感情 と共に死んではならない

「そしてまた、カルマ 以外の外的な条件も死の瞬間において、その人の来世を決定するうえで大きな役割を演じることになる。
 人が死ぬとき、その人の善きカルマ が来世を決める有力な材料であることに間違いないのだが、それだけではないということだ。
 たとえば、仮に、誰かが自分の死に直面して、他者に対して悪しき感情 を持ったとしよう。
 それが、誰かの振る舞いに対する直接のものであったとしても、想像を巡らせたうえのものであったとしても、古い記憶から蘇ってきたものであったとしても、同じことである。
 誰かを憎み恨むような悪しき感情 が、自分の死に際して自分自身の心の中に芽生え、育ったなら、一瞬にしてそれまで集積してきたカルマ の平衡は崩れ去る。」


 私は、亡くなられた方へ導師 として引導 (インドウ)を渡す際に、ダイヤモンドのように硬い信念を持つ。
「弟弟子を必ず極楽 へ渡す」
「妹弟子を必ず極楽 へ渡す」
 もちろん、自分の法力を過信するなどというわけではなく、全身全霊を挙げて、お導きくださるご本尊様のお力におすがりするのである。
 そのためには、導師 自身がご本尊様と確かにつながる世界へ入らねばならない。
 そこは、お慈悲を加えてくださるご本尊様の「加(カ)」と、いただくお慈悲を私たち凡夫が「持(ジ)」する「加持(カジ)」の世界である。
 導師 は、出家得度により、引導 を受ける方よりもわずか一歩、先に仏弟子となった者に過ぎない。
 それが、後から仏門へ入り、「~居士」あるいは「~大姉」として戒名の一部に僧名を授かった可愛い弟弟子や妹弟子を、この世から完全に切り離さねばならない。
 ちなみに「~院」は院号といい、真ん中の「~」は道号といい、最後の「~居士」あるいは「~大姉」を法名または僧名という。

 お柩の中のお顔には必ず、言いようのない気品が漂っている。
 もちろん、納棺師を務める方の精魂込めたはたらきによるところが大きいにしても、やはり、貪り、怒り、愚かさの三毒から抜けきろうとしておられるからであろうと感じている。
 ブログの『今、逝きし妻よ、君は何と美しいことか』にも書いたが、映画『蕨野行(ワラビノコウ)』において北林谷栄が演ずる老婆の最期は忘れられない。
 寒村に生まれ育ち、自主的姥捨て山である蕨野へ入ってからもずっとひもじさと戦ってきた老婆は足を痛め、ついに掟である「自分の口は自分で養う」ことができなくなってしまう。
 仰臥したまま主人公レンへ告げ、この世を静かに去る。
「ようやくひもじさに克った。
 この安楽な気持はお前たちにはわかるまい」

 あらゆる生きものは、自分の口を養うことを一番にしたがる。
 しかも、人間は、単に空腹が満たされただけではなかなか満足できない。
 ここから、貪りが生じ、奪い合いの争いが生じ、よりうまくやろうとして自分勝手で愚かな考えを起こす。
 もちろん、我が子や孫に対すればそこから離れ得るが、多くの場合は、その時だけである。
 霊性によって意欲が洗練されれば文化を生じるが、根にある三毒からはなかなか離れられない。
 上記のシーンは、私たちへその冷厳な事実を突きつけてくる。
 この逃れがたい三毒が、ダライ・ラマ 法王の説く「悪しき感情 」をもたらす。

 しかし、最期に「ありがとう」と口にして去る方は少なくない。
 「ありがとう」のあるところに、貪りや怒りや愚かさに発する「悪しき感情 」はなく、清浄になった者の喜びしかない。
 だから、そうしたお話をお聴かせいただけると、とても安心だが、残念ながら、皆さんが感謝の思いを伝えられるわけではない。
 また、人生のすべてが猛スピードで廻る走馬燈のように脳裏へ浮かぶという最期の瞬間に、いかなる感情 が生じるかはわからない。
 だから、亡くなられた方をそれらすべてから解き放つべく、葬儀の修法が行われる。
 導師 は行者としての全存在をかけて引導 に臨む。

 3月11日、レスリングで活躍している吉田沙保里氏の父親栄勝氏(61歳)の急死が報じられた。
 当山では、突然死した赤ちゃんのご葬儀を何件も行ってきた。
 私たちはいつ、どこで、死ぬかわからない。
 いつ、どうなっても、地獄行きとならぬよう、「誰かを憎み恨むような悪しき感情」を持たずに生きていたい。
 自分が地獄行きとなれば、生み、育ててくれた両親や、代々いのちのバトンタッチを途切らせなかったご先祖様方や、生かしてくださったご縁の方々や、お導きくださった守本尊様方へ申しわけが立たない。
 足(タ)るを知る感謝と無縁に、いぎたなく貪ってはいないだろうか?
 潜んだ高慢心によってつまらぬことにカッカし、心で誰かを罵倒(バトウ)してはいないだろうか?
 ものの道理 から離れた気まま勝手な考えに縛られてはいないだろうか?
 もし、これらに該当すれば、死ぬ瞬間に何が出てくるかわからない。
 お互い、気をつけようではないか。