凍てついた境内地に薄い朝日が射し、雪を除けてみたら、花ごと雪で覆われたはずの福寿草
が、蕾となって雪解けを待っていました。
これから昇る太陽の光を浴び、再び愛らしい花を開くことでしょう。
一方で、原発
の事故
は徐々に悪化の方向へ向かい、今の日本はまったく予断を許さない危機に瀕しています。
大地震の起こした津波にさらわれ、崩壊した家屋に押しつぶされ、避難所で医療が行き届かずいのちを落としつつある方々は、天災の犠牲者です。
また、原発
の事故
で危機に遭遇している私たちは、人災の犠牲者になりつつあります。
ただし、ここで言う「人」は、単に原発
を推進してきた人々ではなく、日本人でもなく、「現代人」です。
日本に住む私たちは、現代文明が抱える根本問題を引き受け、今、身をもって世界中へ示しています。
それを私は「原発
事故
は、日本が犠牲になって、宿痾を世界中の〈共有者たち〉へ示す役割を果たすできごとではないか。」と書きました。
人と人との間で消息が明らかになるにつれて、悲しみはますます深まり、原発
事故
が終息しない限り、不安はますます深まることでしょう。
天の時と人の業が重なり、文字どおり未曾有の災厄になりました。
古人はこうした時「魂消(タマゲ)た」と言ったものです。
魂が消えそうになるのです。
しかし、無常の鬼に魂の気を奪われつつ今こそ、私たちは祖先
が培い、伝えてくれた〈人としてのまこと
〉を尽くしながら、粛々となすべきことをなそうではありませんか。
3月18日付の河北新報は辺見庸
氏の「問われる徳目の真価
」を掲載しました。
「われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。
つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。」
「これまでの余裕のなかではなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。
家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか。
日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。」
「大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。
安らかな日々はきっとくる。
わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。」
私たちは悲しみや不安で動けなくなるかも知れません。
その時は、慌てず、とにかく静かにゆったりと深呼吸をして、じっと無常を見つめましょう。
やがて、見わたす視界に、人々の優しい笑顔や、力強い作業姿や、片づけられ復興する町の様子が活き活きと入ってくるはずです。
そうしたら、ゆっくりと立ち上がりましょう。
たとえ永い時間がかかろうと、何が何でもここを乗り越え、ご先祖様から受け継いだ〈人としてのまこと
〉を尽くす生き方を、次代へ残しましょう。
そのためには、現場では役割を果たし、いずこにあっても心をつなぎ、現場以外では祈ることです。
仏法は、「自らの努力と、縁の力と、仏神のご加護の力」によって善願は成就できると説いています。
努めましょう、連帯しましょう、祈りましょう。
そして、やがて開く福寿草
のように、必ずや、復活しようではありませんか。
般若心経を一緒にお唱えしましょう。
般若心経の音声はこちらから
どうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらから
どうぞ。
〈春ならぬ雪景色〉
〈福寿草
〉