さっそく「東北関東大震災
・被災
の記(その6)」へご批判をいただきました。
まことにありがたいことです。
投稿された方をAさんとさせていただきますが、おそらく、Aさんと似た感想を持たれた方がたくさんおられたのではないでしょうか。
今日の「(その7)」をもって「東北関東大震災 ・被災 の記」を終了する予定でしたので、心より感謝しています。
ご意見のあらましは以下のとおりです。
○第一要点について
私たちは二つの世界に住んでいます。
一つは、目や、耳や、鼻や、舌や、皮膚などではたらく五感を通じて入る情報を整理し、「これ有り」または「これ無し」と証明された科学 的世界です。
もう一つは、「これ無し」と証明されず、五感のいずれを通じるともなく感じとれる宗教 的世界です。
両世界は車の両輪であり、たとえば、科学 は鋭利な包丁という道具を作って生活を便利にし、宗教 は包丁で人を刺してはならないと道具の用い方を教えます。
私は宗教 者ですが、仏法には共業 (グウゴウ…個々人のつくる業が集まって社会的業となったもの)という教えがあり、人は常に自分のつくる業(ゴウ)と社会的業(ゴウ)とを考えながら生きなければ、この世に幸せをもたらすことができないと考えているので、科学 の分野に無関心ではいられません。
個人的業(「不共業 」といいます)が、巨大な共業 の前に吹き飛ばされてしまうことは、「私自身広島で原爆の経験もあり」とおっしゃるAさんには、よくよくおわかりのことでしょう。
こうした観点から、今ある情報や知識をもって何ごともコントロールできると考え、自然への畏れや人間の矮小さへの慎みを忘れたかのような勢いで、あまりにも危険なものをどんどんつくることを看過できないのです。
○第二要点について
おっしゃることには首肯します。
まことにそのとおりで、「報道関係者も非常に気をつけて意見を言っています」というご指摘も理解できます。
だからこそ、私は宗教 者として、批判や非難を覚悟の上で拙文を書きました。
なぜなら、私たちは、ともすると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」からです。
同じ理由から、私は、ご葬儀のおり、必ず、み仏の教えについてお話し申し上げます。
最も深い悲しみの中にあり立ち止まっている時こそ、人間の真実や生と死の厳粛さ、そしてみ仏の教えについて考え自らを省みる重要な時間であり、故人がその死をもってつくってくださった貴重な機会を生かすのが宗教 者の務めであると信じているからです。
Aさんは決してこの危機を忘れないことでしょう。
身近な方の死に深く心を沈めた体験のある方もまた、〈死や供養 はどこかにあるもの〉ではなくなっているはずです。
そうした方々には、宗教 者の話など余計なことかも知れません。
しかし、「そうした方々」でない方々もたくさんおられるので、皆さんの不興を覚悟で多少、大げさに書きました。
○第三要点について
三つの視点から私見を申し上げます。
一つは、私は、「酒を飲み過ぎて死にそうになった人」も、「その人を解放する人」も、「回復を祈る私」も、〈ともすれば酒を飲み過ぎる〉存在としてまったく等しく観じているという点です。
昨日も来山された方やメールをくださった方などと、手を取り合い共に涙する思いで過ごしました。
お身内を、友人を、社員を亡くされた方々のため、亡くなったすべての方々のため、祈りました。
私自身、何種類も服用している処方薬を切らしていますが、自分より酷い境遇におられる方々のことを想い、ギリギリまで動かないつもりでいます。
だから、この拙文は、決して、誰かをそちら側において説教を垂れるなどという姿勢で書いたものではありません。
当然自分を含め、自分を初めとして今を生きている私たちすべてが省みようという趣旨のつもりですが、Aさんが「責め」と受け取られたとしたなら、私の未熟さのなすところであり、深くお詫び申し上げます。
もう一つは、「早く回復するように励ま」すのは私の第一の本分であり、それはできる限り行った上でこうしたメッセージを発しているという点です。
僧侶が祈るのはあまりに当然であり、私は祈っていますとあまり書きませんが、「(その1)」に少し述べました。
「真っ暗な本堂に座り、供養 法、ご加持 法を行う。
明日、夜が明けてから「大日 法」「不動法」「大師 法」を結ぼうと思う。」
通電した今、3時過ぎには起床し、被災 者の無事安全のため、亡くなられた方々を弔うため、修法しています。
Aさんが「励まし」の言葉がないとご不満を感じられたなら、私の未熟さのなすところであり、深くお詫び申し上げます。
実は締めくくりとして最後に予定していた「(その7)」が〈励ましの稿〉なのですが、ここまでの間、思慮が足りなかった点もまた、深くお詫び申し上げます。
もう一つは、〈今〉を、原発 問題だけでなく深い意味で非常事態と感じている点です。
ご葬儀では、死者へはこの世とあの世の区切りをつける法を結んで引導を渡し、生者へは死者と共に生きて人間的に向上するお話を申し上げます。
それはまったく別ものです。
しかし、この事態にある私たちには、そうした区切りがないと感じています。
亡くなられた人々、私も含め生きている人々、そして震災のさまざまな影響を受けて急速に生と死の縁へ向かっている人々は、非常事態を共有しています。
だから、私にとって、亡くなられた人々のために供養 を行うことも、生きている人々のために励ますことも、生と死の縁へ向かっている人々のために安全を祈ることも、そしてすべての人々のために省みることも同時進行となっています。
Aさんが、「省みる」面ばかり強調されて思いやりが薄いと感じられたなら、私の未熟さのなすところであり、深くお詫び申し上げます。
○第四要点について
宗教 者ならまず祈る、そして原発 などの諸問題は落ちついてから考察するべきではないかというAさんのご指摘に異論はありません。
しかし、ここまで記した内容でお察しいただけたと思いますが、未熟な宗教 者には順番どおりにできないこともあります。
こうした未熟さが拙稿を目にされた方々へご不興、あるいはお怒り、あるいはご不満、あるいはご落胆などをお与えしたならば、心よりお詫び申し上げます。
○最後に
石原慎太郎都知事は「日本人のアイデンティティーは我欲になっちゃった。アメリカ1 件のアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等だ。日本はそんなもんない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と言いましたが、私はまったく異なる見解を持っています。
未曾有の危機にありながら国民が粛々と対応し、略奪や混乱のないこと、原発 関係者はもちろん、医療従事者、福祉関係者、政府、各自治体、警察、自衛隊、海上保安庁、あるいはボランティアなど、たくさんの国民が全力を尽くしていることを見れば、知事とは反対に「日本人ここにあり」と胸を張るべきではないでしょうか。
原発 の問題は、福島県民や避難している方々や日本人だけの問題ではなく、人類の問題です。
戦後、奇跡的な復興を遂げた日本人は、あっという間に世界の先頭を走る国々の仲間入りをし、この問題では先頭を走る者の宿命として、文明の抱える業(ゴウ)を最も色濃く抱えてしまったというのが事実ではないでしょうか。
私たちは先頭者だからこそ、実際に危機にあればこそ、率先して発想の転換をはかり使命をはたすべきではないかと考えています。 こうした共業 (グウゴウ)は私たち一人一人が一瞬一瞬のうちに積み上げて行くものなので、時節への配慮も少ないままに不遜な拙文を書きました。
Aさん同様の感想を持たれた方々へは、心よりお詫び申し上げます。
「(その7)」で書く予定だった〈励ましの稿〉は次回とします。
ここまで読まれてなお、読んでみようかと思われたならば、どうぞご照覧ください。
皆々様のご無事を祈っています。合掌
〈法の導き〉
まことにありがたいことです。
投稿された方をAさんとさせていただきますが、おそらく、Aさんと似た感想を持たれた方がたくさんおられたのではないでしょうか。
今日の「(その7)」をもって「東北関東大震災 ・被災 の記」を終了する予定でしたので、心より感謝しています。
ご意見のあらましは以下のとおりです。
「原発 反対という事は分かるのですが、其れと宗教 的考察とがなかなか結びつかなくて困っております。(仮に第一要点とします)
今の時期に,『原発 のメルトダウン(炉心溶融)が起こるとするならば、それは日本が廃墟となる日へのカウントダウンかも知れない。』などと言って、やたら人を不安に陥れる事は、今のこのタイミングでは正しい事とは思えません。(仮に第二要点とします)
酒を飲み過ぎて死にそうになった人に向かって、『自制心なく酒を飲んだお前が悪い。 お前の間違いだ』と、病院のベッドのそばで責めているようなものです。
酒の飲みすぎで死にそうな人のそばでは、早く回復するように励まし、元気になってからお説教をたれるべきと思います。(仮に第三要点とします)
私が宗教 家に今期待する事は、生命の危険を掛けてメルトダウンを防ごうとしている人たちの安全と成功を祈ってもらいたい事です。
そして、今起きている事が落ち着いてから、この事を教訓としてもう一度原発 について考察する事が必要と思います。(仮に第四要点とします)」
○第一要点について
私たちは二つの世界に住んでいます。
一つは、目や、耳や、鼻や、舌や、皮膚などではたらく五感を通じて入る情報を整理し、「これ有り」または「これ無し」と証明された科学 的世界です。
もう一つは、「これ無し」と証明されず、五感のいずれを通じるともなく感じとれる宗教 的世界です。
両世界は車の両輪であり、たとえば、科学 は鋭利な包丁という道具を作って生活を便利にし、宗教 は包丁で人を刺してはならないと道具の用い方を教えます。
私は宗教 者ですが、仏法には共業 (グウゴウ…個々人のつくる業が集まって社会的業となったもの)という教えがあり、人は常に自分のつくる業(ゴウ)と社会的業(ゴウ)とを考えながら生きなければ、この世に幸せをもたらすことができないと考えているので、科学 の分野に無関心ではいられません。
個人的業(「不共業 」といいます)が、巨大な共業 の前に吹き飛ばされてしまうことは、「私自身広島で原爆の経験もあり」とおっしゃるAさんには、よくよくおわかりのことでしょう。
こうした観点から、今ある情報や知識をもって何ごともコントロールできると考え、自然への畏れや人間の矮小さへの慎みを忘れたかのような勢いで、あまりにも危険なものをどんどんつくることを看過できないのです。
○第二要点について
おっしゃることには首肯します。
まことにそのとおりで、「報道関係者も非常に気をつけて意見を言っています」というご指摘も理解できます。
だからこそ、私は宗教 者として、批判や非難を覚悟の上で拙文を書きました。
なぜなら、私たちは、ともすると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」からです。
同じ理由から、私は、ご葬儀のおり、必ず、み仏の教えについてお話し申し上げます。
最も深い悲しみの中にあり立ち止まっている時こそ、人間の真実や生と死の厳粛さ、そしてみ仏の教えについて考え自らを省みる重要な時間であり、故人がその死をもってつくってくださった貴重な機会を生かすのが宗教 者の務めであると信じているからです。
Aさんは決してこの危機を忘れないことでしょう。
身近な方の死に深く心を沈めた体験のある方もまた、〈死や供養 はどこかにあるもの〉ではなくなっているはずです。
そうした方々には、宗教 者の話など余計なことかも知れません。
しかし、「そうした方々」でない方々もたくさんおられるので、皆さんの不興を覚悟で多少、大げさに書きました。
○第三要点について
三つの視点から私見を申し上げます。
一つは、私は、「酒を飲み過ぎて死にそうになった人」も、「その人を解放する人」も、「回復を祈る私」も、〈ともすれば酒を飲み過ぎる〉存在としてまったく等しく観じているという点です。
昨日も来山された方やメールをくださった方などと、手を取り合い共に涙する思いで過ごしました。
お身内を、友人を、社員を亡くされた方々のため、亡くなったすべての方々のため、祈りました。
私自身、何種類も服用している処方薬を切らしていますが、自分より酷い境遇におられる方々のことを想い、ギリギリまで動かないつもりでいます。
だから、この拙文は、決して、誰かをそちら側において説教を垂れるなどという姿勢で書いたものではありません。
当然自分を含め、自分を初めとして今を生きている私たちすべてが省みようという趣旨のつもりですが、Aさんが「責め」と受け取られたとしたなら、私の未熟さのなすところであり、深くお詫び申し上げます。
もう一つは、「早く回復するように励ま」すのは私の第一の本分であり、それはできる限り行った上でこうしたメッセージを発しているという点です。
僧侶が祈るのはあまりに当然であり、私は祈っていますとあまり書きませんが、「(その1)」に少し述べました。
「真っ暗な本堂に座り、供養 法、ご加持 法を行う。
明日、夜が明けてから「大日 法」「不動法」「大師 法」を結ぼうと思う。」
通電した今、3時過ぎには起床し、被災 者の無事安全のため、亡くなられた方々を弔うため、修法しています。
Aさんが「励まし」の言葉がないとご不満を感じられたなら、私の未熟さのなすところであり、深くお詫び申し上げます。
実は締めくくりとして最後に予定していた「(その7)」が〈励ましの稿〉なのですが、ここまでの間、思慮が足りなかった点もまた、深くお詫び申し上げます。
もう一つは、〈今〉を、原発 問題だけでなく深い意味で非常事態と感じている点です。
ご葬儀では、死者へはこの世とあの世の区切りをつける法を結んで引導を渡し、生者へは死者と共に生きて人間的に向上するお話を申し上げます。
それはまったく別ものです。
しかし、この事態にある私たちには、そうした区切りがないと感じています。
亡くなられた人々、私も含め生きている人々、そして震災のさまざまな影響を受けて急速に生と死の縁へ向かっている人々は、非常事態を共有しています。
だから、私にとって、亡くなられた人々のために供養 を行うことも、生きている人々のために励ますことも、生と死の縁へ向かっている人々のために安全を祈ることも、そしてすべての人々のために省みることも同時進行となっています。
Aさんが、「省みる」面ばかり強調されて思いやりが薄いと感じられたなら、私の未熟さのなすところであり、深くお詫び申し上げます。
○第四要点について
宗教 者ならまず祈る、そして原発 などの諸問題は落ちついてから考察するべきではないかというAさんのご指摘に異論はありません。
しかし、ここまで記した内容でお察しいただけたと思いますが、未熟な宗教 者には順番どおりにできないこともあります。
こうした未熟さが拙稿を目にされた方々へご不興、あるいはお怒り、あるいはご不満、あるいはご落胆などをお与えしたならば、心よりお詫び申し上げます。
○最後に
石原慎太郎都知事は「日本人のアイデンティティーは我欲になっちゃった。アメリカ1 件のアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等だ。日本はそんなもんない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と言いましたが、私はまったく異なる見解を持っています。
未曾有の危機にありながら国民が粛々と対応し、略奪や混乱のないこと、原発 関係者はもちろん、医療従事者、福祉関係者、政府、各自治体、警察、自衛隊、海上保安庁、あるいはボランティアなど、たくさんの国民が全力を尽くしていることを見れば、知事とは反対に「日本人ここにあり」と胸を張るべきではないでしょうか。
原発 の問題は、福島県民や避難している方々や日本人だけの問題ではなく、人類の問題です。
戦後、奇跡的な復興を遂げた日本人は、あっという間に世界の先頭を走る国々の仲間入りをし、この問題では先頭を走る者の宿命として、文明の抱える業(ゴウ)を最も色濃く抱えてしまったというのが事実ではないでしょうか。
私たちは先頭者だからこそ、実際に危機にあればこそ、率先して発想の転換をはかり使命をはたすべきではないかと考えています。 こうした共業 (グウゴウ)は私たち一人一人が一瞬一瞬のうちに積み上げて行くものなので、時節への配慮も少ないままに不遜な拙文を書きました。
Aさん同様の感想を持たれた方々へは、心よりお詫び申し上げます。
「(その7)」で書く予定だった〈励ましの稿〉は次回とします。
ここまで読まれてなお、読んでみようかと思われたならば、どうぞご照覧ください。
皆々様のご無事を祈っています。合掌
〈法の導き〉
