天変地異
は不可抗力であり、人間のいかなるはからいをも、しばしば、やすやすと無にしてしまう。
貞観(ジョウガン)11年(西暦869年)の「貞観地震」においても、津波で流された東北地方の方々は千人を超えたという。
この世に別れを告げた人と、生
き残った人とを峻別したのは何か──。
答は永遠に出ない。
生
と死
を分けたものの特定を許さないのが天変地異
である。
荒れ狂う暴風の前に、人間は一枚の木の葉でしかない。
枝から離れずにいる者と、舞い落ちる者とは同じ位相にいる。
二枚は、いずれがいずれであっても、おかしくない。
津波に襲われて生
き残ったAさんが沖へ流されたBさんであってもおかしくない。
さらに言えば、今、こうしてキーボードを叩いている私が、人知れず深海へ沈みつつある誰かであっても、ちっとも不思議ではないのだ。
心からそう思う。
まことに自然は峻烈である。
一方、万の単位に上るであろう地震と津波による死
者の総数を遙かに超えておかしくないのが、原発事故
が悪化することによって放射能を受ける可能性のある人々である。
識者が指摘しているとおり、半径~キロメートルなどという生
やさしい話ではなく、日本全土が汚染され、あるいは25年前にロシアのチェルノブイリ
原子力発電所で発生
した事故の時と同じく、世界中へ放射能がまき散らされるかも知れない。
まさに「ダモクレスの剣
」が落ちるばかりになっているが、日本人の頭上に原発というこの剣を吊したのは他ならぬ日本人であり、ひいてが現代人であることを深く省みなければならない。
この省察は、日本人よりも早く、すでにドイツなどの国々において始まっている。
私が
「原発のメルトダウン(炉心溶融)は日本が廃墟となる日へのカウントダウンかも知れない。
しかし、世界が生き残り、生き残った人々にとってこの事故が深い教訓となれば──、それもやむを得ない。」
と書いたのはこのことである。
確かに地震の規模は〈想定外〉だったことだろう。
しかし、過去に起こった地震の記録を調べて対策を講じた程度のことで、日本中をあるいは世界中を放射能で汚染しかねない原発の運転を安全とし、いつ悪魔になるかわからない神のように高性能な道具を制御し得ると判断したのは人間の仕業である。
この日本始まって以来未曾有(ミゾウ)の危機を招いた〈原因〉はあくまでも原発の開発・運転にあり、地震は〈縁〉であったことを肝に銘じたい。
直接的原因である〈因〉と、間接的原因である〈縁〉とを取り違えてはならない。
こうした取り違えをこそ、般若心経は「顚倒(テンドウ)」という。
だから、原発事故
による被害は、正確には「天災」でなく、「人災」に分類すべきである。
「そんなことを言うなら、橋が落ちたのも、船が流されたのもすべて人災なのか?」と問う声が聞こえてきそうだが、 橋や船と原発は次元の違う存在だ。
橋の問題は通る人の問題であり、船の問題は乗る人の問題だが、原発は人類全体の問題であることを認識せねばならない。
人間が〈一面は神、一面は悪魔〉であるこの道具を思うがままに使いこなせると考えるところに現代文明の傲慢さがある。
人間など、水道が出なくなれば、電気が通らなくなれば、電話が通じなくなれば、ガソリンやガスがなくなれば、たちまち、立ち往生
する。
東日本の太平洋側は、あっという間に、飲み水に困り、食糧に困り、暖に困り、伏す床に困る人だらけになった。
水も食糧もなく摂氏0度の環境に裸で放り出されたならば、たった一ヶ月も自分のいのちすら保てない。
こんな脆弱な人間が神や悪魔を思うがままに仕えさせるなど、土台、分を忘れた欲だったのである。
混迷深いアフガニスタンにおいて貧困層の医療に献身的な情熱を注ぎ、20年以上もの長い年月を過ごしている医師中村哲
氏の血を吐くような警句を思い出す。
現代文明にどっぷりと浸っている私たちは、ここで立ち止まろう。「我われの敵は自分の中にある。
我われが当然とする近代的生 活そのものの中にある」
プラント建設を〈原因〉とし、想定外の地震を〈縁〉として生 じた原発事故 の帰趨にかかわりなく、何としても立ち止まろう。
[補遺 ダモクレスの剣 ]
古代ギリシャの話である。
ディオニュシオス王の境遇を讃えた臣下ダモクレスは、ある日、王が催す豪華な宴に招待された。
ダモクレスがふと天井を見上げると、細い糸に吊された剣がぶら下がっている。
王は、ダモクレスへ王の座が常に危険にさらされていることを示したのである。
今、私たちの文明は、いかなる剣を自らの頭上へ吊しているのか。
指折り数えるほどありはしないだろうか……。
〈雪の世界〉

〈雪にまみれて餌を探す彼の真剣さは他人ごととでない〉
