僧侶 や寺院が厳しい目を向けられている昨今ですが、私はこの道へ入って間もなく、一読してガーンと殴られたような気がした文章を大切にしています。
 真言宗智山派や豊山派などの始まりとなった改変者興教大師 (コウギョウダイシ)覚鑁 (カクバン)様が書かれた「密厳院 発露懺悔 文(ミツゴンインホツロサンゲノモン)」です。
 何やら難しそうですが、ゆっくり読めば内容は簡明で誰にでも理解でき、自分の至らなさを省みさせないではおかない迫力があります。

 お大師様の再来とまで称された覚鑁 (カクバン)様は、僧侶 が堕落している状況を嘆き、真言宗総本山金剛峰寺内の自坊「密厳院 」にて3年もの間無言の行に没頭し、行を終えてすぐ、この文章を一気に書き上げました。
 後に、反対する勢力によって高野山を追われた覚鑁 (カクバン)様は新しい派をつくり、文章を誓いの経文として定着させました。
 この経文はもちろん僧侶 への戒めですが、当然、人の道を歩むべきどなたにとっても自分を見つめ直すポイントとなるものです。
 今からおよそ900年前、筆の先から不動明王の火炎をほとばしらせつつ書かれた名文を読んでみましょう。

「我等(ワレラ)懺悔 (サンゲ)す。
 無始よりこのかた妄想(モウゾウ)に纏(マト)はれて衆罪(シュザイ)を造る。
 身口意(シンクイ) (ゴウ)、常に顛倒(テンドウ)して、誤って無量不善の (ゴウ)を犯す。
 珍財を慳悋(ケンリン)して施を行ぜず、意(ココロ)に任せて放逸にして戒を持せず、しばしば忿恚(フンニ)を起して忍辱(ニンニク)ならず、多く懈怠(ケダイ)を生じて精進(ショウジン)ならず、心意(シンニ)散乱して坐禅せず、実相に違背して慧(エ)を修せず。
 恒に是の如くの六度の行を退して、還(カエ)って流転三途(ルテンサンズ)の )を作る。」

(私たちは、以下の状態を悔い改めます。
 遙かな過去から現在に至るまで、真実に背いた自己本位の誤った妄想にとらわれて、さまざまな罪を犯してきました。
 身体も言葉も心も、そのはたらきは真実に背き、たくさんの誤った正しくない を積み重ねてきました。
 豪華な財物を集めるばかりで布施 をせず、気ままに生きて戒律を守らず、たびたび怒って忍耐をせず、修行 を怠って努め励まず、心は散乱したままで瞑想を行わず、真実のありように背いて悟りの智慧を修得しようとしない。
 いつもこのように、布施 行や持戒 行など六つの修行 から離れ、悟りへ向かうどころか、地獄や餓鬼や畜生の三悪道へ堕ちる悪 をつくっています。)

 すさまじい懺悔 です。
 ご縁の方々の気持に寄り添わず、自己中心になってはいないか?
 財物を蓄えるばかりで、困った人々へ手を差しのべることを忘れてはいないか?
 気ままになり、よこしまなセックスや、つまらぬ怒りや、貪りにとりつかれてはいないか?
 いっさいの仮面をつけず、自分を含めた聖職者たちのありのままの様子を、心からみ仏へ披瀝(ヒレキ…申し述べる)しています。
 これは、悟らない限り陥って抜け出られない迷いの状態にあるのは万人共通の姿だけれども、迷いから脱するための修行 に励むべき僧侶 もまた、同じ姿のままであるという強烈な指摘です。
 護摩 堂で修法中の覚鑁 (カクバン)様を襲った暴漢たちは、猛火の中におられるお不動様と行者の場所におられるお不動様とまったく同じになっているありさまに驚き、畏れ、退散したとされていますが、まさにお不動様の憤怒が懺悔 と一体になってほとばしる経文です。

 最高の叡智を謳われた傑僧(ケッソウ…抜きんでて優れた僧侶 )が「我等懺悔 す」と書き始めた時の気持を思うと、小学生が厳しい先生の前に立つような神妙な思いになります。
 以下、読み進みます。
 共に人の道を歩もうとする皆さんもそれぞれ、我が身をふりかえってみませんか。


〈たくましき者〉
230311 001