かつては江戸時代寺子屋 などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教 (ジツゴキョウ)・童子教 (ドウジキョウ)』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教 』が家庭学校 の現場で用いられるよう願ってやみません。

15 この世の荒波をのりきる法

四等(シトウ)の船(フネ)に乗(ノ)らずんば、
誰(タレ)か八苦(ハック)の海(ウミ)を渡(ワタ)らん。


(慈・悲・喜・捨の四無量心 を誰に対しても平等に起こさねば、四苦八苦 のこの世を乗りきってはゆけない)

 四無量心 (シムリョウシン)とは、慈(ジ)・悲(ヒ)・喜(キ)・捨(シャ)の4つが限りなく起こる心です。

①慈(慈愛)…相手の幸せを望む心
 ここで言う相手とは、すべての人々です。
 自分と同じく幸せを求めるすべての人々です。
 この心は「自分が幸せに生きたいと願うのだから、きっと皆もそうに違いない」という想像力が前提になっています。
〈自分だけ〉という自己中心の気持が薄れると清浄な想像力がはたらき、こうした真実がわかってきます。

 周囲を眺めると、確かに、家族も、友人も、同じく幸せを求めていることがわかります。
 本当に「そうだなあ」と思えれば、「待てよ、憎たらしいあいつだって同じじゃないか」と気づきます。
 そして意識が広まり深まって文字どおり〈すべての人〉は自分と同じであるという実感が持てる時、心のステージが上がり、〈み仏の目〉で自他を平等に観ることができます。
 そうすると、周囲の人々が皆、自分と同じく幸せを求める心を持って生きているという実感が伴い、さまざまなおりに相手が幸せになるため、あるいは幸せを保つため、あるいは幸せを増大させるためのお手伝いをしないでいられなくなります。
 こうして自他の心をきちんと観れば慈愛が起こるのは、私たちが仏性(ブッショウ)という〈み仏の種〉を持っているからです。

 さて、自分が幸せを望む心があって初めて、他人が幸せを望む心を〈我がもの〉と感じられます。
 だから、自分が幸せを求める人でなければ、慈愛の実践はできません。
 それは、「自分なんてどうなっても構わない」と捨て鉢になっている人が、友人の幸せ話に心から共鳴、応援できるかどうかを考えてみればすぐにわかります。
「エッ、それじゃあ仏様はどうなっているの?
 お地蔵様なんて、自分が身代わりになって誰かの苦を引き受け手やろうとおっしゃっているのに。
 ──仏様が自分の幸せを願っているなんて信じられない」
と思うかも知れませんが、心配ご無用です。
 み仏のお智慧はこの上ないレベルであり、人々が幸せを願っていることを知り尽くしておられます。
 そしてこの上ないレベルの慈愛をもお持ちなので、たとえ自分が相手のの苦を引き受けても、相手を幸せにしてやろうとします。
 こうしたはたらきに徹することが、み仏のレベルでの幸せなので、み仏はおしなべて柔和なお顔をしておられるのです。
 捨て鉢なみ仏はあり得ません。

 自分の幸せを願うのが私たち凡人、自他の幸せを願うのが聖者、良き願いそのものになっておられるのがみ仏と考えてはいかがでしょうか。
 
②悲(抜苦)…相手の不幸を取り除く心
 自分が不幸でありたいと願う人はいません。
 自分が不幸でなくなりたいと願うのと同じく、すべての人が不幸でなくなりたいと願っています。
 ならば、〈み仏の目〉で自他を平等に観さえすれば、さまざまなおりに相手が不幸をとり除くためのお手伝いをしないでいられなくなります。

③喜(随喜)…相手の幸せを自分の幸せと同じに喜ぶ心
 幸せになれば嬉しく、笑いを含んだ柔和な顔になるものです。
 そうした表情の人は、接する人々の心を明るくしてくれます。
 幸せ感は伝播して、幸せでない境遇の人の心をも明るくしてくれます。
 心の明るさは運気の上昇を招き、笑顔は運気を上昇させる大きな力を持っています。
 だから、相手の幸せを心から喜べる人は、いつも心に明かりをともしていられ、決して〈我が身の不運を嘆く〉ことはありません。
 苛酷な人生を過ごしてきたはずの人が、笑顔を喜ばれる人になっていたりするのは、大きな不幸の中で小さな幸せの価値を見つけ、それを自分の中にも他人の中にも見つける〈幸せ探し〉の名人になっておられるからではないでしょうか。
 本当に幸せの価値を知っている人にとっては、他人の幸せを自分の幸せと同じように喜ぶことは、あまりにも当然なのかも知れません。

④捨(浄捨)…相手に対するすなおで平静な差別を捨てた心
 自分に具わった幸せを求める心も、不幸を除きたい心も、誰かの幸せに笑顔を浮かべる心も、万人共通の仏性という泉から流れ出ています。
 このことに実感が持てれば、「浄らかな捨」は実践されることでしょう。

〈笑う少女 作:北村声望〉

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