前々回、書いた法句経 物語のしめくくりです。

「お前は、行者になったからといって何も会得していないそうではないか。
 こうした場に招かれたからといって一体、何ができるのか。
 私は俗人だが、教えの一つぐらいは知っているぞ。
 智慧なき行者などあるものか。
 お前に施したからといった何の役にも立たない。
 ここから入ってはならない」
 こうしてチューラパンタカ は一人、門外に残されました。

 人が人を観るのは難しいものです。
 師と共に四国八十八霊場を廻った時のことです。
 師は野袴に袖のない羽織をまとい杖を突いて一般の方々へ混じり、弟子たちは托鉢 姿でした。
 どこの宿でも托鉢 姿の者から丁重に招き入れようとし、師へは特段、注目しませんでした。
 托鉢 行に明け暮れていた時のことです。
 「~宗~派」と彫られた檀家の証が金色に輝いているお宅を訪ねました。
 年配の旦那様はすぐ目の前に立って貧しそうな托鉢 僧を見下し、言いました。
 「私は~山へ毎年~十年登って修行しているが、君は何年修行しているの?
 私の家は代々~寺の総代だが、君のお寺は何軒檀家があるの?」

 「君子の豹変」もまた、なかなか理解されにくいものです。
 このことわざは本来、「豹が季節によって皮膚の模様を変えるように、君子の器がある人物は、時に応じことに応じて大胆な変革を行える」というものです。
 豹の模様は表面が変わっただけですが、君子の変化は、変化前よりも高いレベルへ向かう〈内実の向上あるいは前進〉が伴っています。
 しかし、周囲はこの事情をなかなか理解できず、「また変わった」としか考えない場合が少なくありません。
 また、同級生や古い知人のめざましい成長を目にしても、「あいつは昔、~だったんだ」と、相手をいつまでも過去のレベルへ引き下ろしておきたいという暗い心がはたらき、変貌がすなおに認められない場合もあります。
 門番は実に、私たちの愚かさを示しています。


「必ずしもたくさん学んでいなくとも、教えを実践する方が悟り へ近づけるのです。
 チューラパンタカ は確かにたった一つしか知りませんが、それを熟考し、実践し、奥義に到達し、もはや彼の身口意は煩悩 による乱れから離れきりました。
 彼の心身は、天界でじっと光っている金のように清浄です。
 人々はいかにたくさん学んだからといって、熟考せず、理解せず、実践しなければ、ただ知識を増やしただけに過ぎず、悟り は開けません」


「たった一つの教えであっても理解し、実践すれば、仏道 を成就できるのである」
 釈尊が説き終わった瞬間、三百人の行者たちはアラカンの悟り を開き、国王はじめ全員が歓喜しました。


○わかりやすい教え その1
 病気になったお大師様は、穀物を断って瞑想し、講話を行い、宮中でも天下国家の安穏を願って修法しました。
 亡くなる前年に般若心経の真髄を示した最後の書物にこうあります。

「それ、仏法遙かに非ず、心中にして、即ち近し。
 真如(シンニョ)、外に非ず。
 身を棄てて、何(イズク)んか求めん。
 迷悟(メイゴ)我に在れば、発心(ホッシン)すれば即ち至る。
 明暗、他に非ざれば、信修(シンジュ)すれば、忽(タチマ)ちに証す」

(仏法はどこか遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあって、とても身近なものです。
 真実そのものは心の外にあるのではありません。
 この自分自身以外のどこにそれを求めようとするのですか。
 迷いも悟り も自分自身にあるので、それを求める決心をすれば必ずそこへたどりつけます。
 智慧の明かりも煩悩 の闇も自分の心を離れてはないのだから、仏法を信じて修行すれば、たちまちのうちに悟り を得られるのです)

○わかりやすい教え その2
  (クウ)の哲学を完成したとされる龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、解脱(ゲダツ)を明確に定義しました。

「内については自己、外については自己の所有物という観念が消え去った時、心身の複合体は新たに形成されなくなる。
 これが消滅することによって、輪廻転生 (リンネテンショウ)もまた消滅する」

 自分と外界を実体視することによって誤った概念的思考がはたらき、欲しい、惜しいという煩悩 (ボンノウ)が起こります。
 煩悩 が悪業(アクゴウ)をつくり、さらに悪業を増大させ、私たちは地獄界へ行ったり、修羅界へ行ったりと輪廻転生 をくり返します。
 釈尊が説かれたとおり、原因を滅すれば結果もまた起こりえないので、自分と外界とを実体視するという観念のはたらきがなくなれば、煩悩 もなくなり、悪業はつくられず、輪廻転生 もまた、なくなります。
 そして、この世がそのまま浄土になるのです。
 苦の根元である智慧の明かりがない状態すなわち無明(ムミョウ)の内容とは「自分と外界とを実体視する」錯覚であり、それを払拭するのが (クウ)を観る智慧です。
 ここから真の慈悲 心も起こります。

 たとえば誰かを好きになった時、普通はしがみつきたくなり、貪りたくなりますが、 の心でいれば、かりそめの今を一緒に生きている相手が愛おしくなり、何よりも元気で幸せであって欲しいと願うはずです。
 いわゆる愛と慈悲 はまったく異なります。
 最近、こんな話を聞きました。
 奥さんは仲の良い友人と温泉へ向かい、夫もまた、どこかの温泉へでかけたそうです。
 ところが温泉旅館で、奥さんと友人は、女連れの夫とバッタリ出くわしました。
「あら、あなたもここへ来ていたんですか」
 奥さんは軽く会釈し、なにくわぬ顔ですれ違いました。
 以後、夫は深く省み、奥さんへ感謝し、奥さんを大切にし、二人はますます仲睦まじくなったそうです。
 夢のような実話です。

○わかりやすい教え その3
 以前も書きましたが、公憤についてのダライ・ラマ法王の説法は実に明解です。

「怒りには、慈悲 から生じるものと、悪意から生じるものという、二つのタイプがあります。
 心の根底に他者に対する思いやりや慈悲 があって生じている怒りは、有益なものであり、持つべき怒りです。
 他者を傷つけたいという悪意から生じる怒りは、有害で鎮めるべき怒りです。
 悪意からの怒りは人に向けられます。
 しかし、慈悲 からの怒りは人に対してではなく、行為に対して向けられます。
 ですから原因となる行為がなくなれば、怒りも消滅するのです」

 教えをなかなか信じられず、悪業を積んでしまう人を厳しく叱って救う不動明王の怒りが理解できるのではないでしょうか。

 お大師様、龍樹菩薩、ダライ・ラマ法王の教説は、根本をわかりやすく示し、一度読んだら忘れられません。
 釈尊が「たった一つの教えであっても理解し、実践すれば、仏道 を成就できるのである」 には深く頷(ウナヅ)かされます。

〈鳥の目を持つもの〉
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