前回、書いた法句経
物語を復習してみましょう。
①物覚えが悪く、年老いてから出家修行者となったチューラパンタカ は、極めて簡明な教えをきっかけとして悟り を開きました。
魂の動きは身口意 (シンクイ)に連動しています。
だから十善戒は、「不殺生・不偸盗(フチュウトウ)・不邪淫」の三つで身体が悪業をつくらぬよう戒め、「不妄語・不綺語(フキゴ)・不悪口(フアック)・不両舌(フリョウゼツ)」の四つで言葉が悪業をつくらぬよう戒め、「不慳貪(フケンドン)・不瞋恚(フシンニ)・不邪見」の三つで心が悪業をつくらぬよう戒めています。
これを「身三(シンサン)口四(クシ)意三(イサン)」と言い、この戒めを知らぬ仏教徒はいません。
そして仏教において特徴的なのは、罰が当たるから戒めを守るのではなく、〈自然に戒めを生きる〉ことをめざすのが人の道であるという点です。
当山では、日々「我、線香のごとく自他を清め、浄戒そのものになりはてん」と誓っています。
釈尊が、身口意 を正しく用いればそれが悟り への入り口であり、悟り への到達法であると説かれたとおり、密教では、身口意 を清め守る護身法(ゴシンポウ)をもって入り口とし、護身法が体得できれば行者としての完成であるとされています。
修行なり修法なりの始めに護身法を行わない密教行者はおらず、隠形流居合でも、稽古の初めには必ず実践しています。
最も肝心なことは実に簡明に示されるものです。
②意地悪な気持でいた尼僧たちは、一転して悟り を開きました。
こんなことがあってはおかしいのですが、決して珍しくないケースと言えましょう。
たとえ朝晩お経を唱えていようと、毎日本を読んでいようと、毎週お寺詣りをしていようと、そして寺院で修行していようと、心が善きはたらきをするように変化向上しない限り、心はいつでも悪しきはたらきをします。
最近、大学の受験生がネットで問題の解答を求め、偽計業務妨害 容疑で逮捕されました。
学校に差別をするのではありませんが、京都大学という日本で最高レベルの知力が求められる大学を受験する若者が、小学生でも知っているカンニングという不正行為を堂々と行い、結果的に、日本中の試験会場のありようをガラリと変えてしまった事件は、社会的な科学の発達も、個人的な頭脳の優秀さも、善悪の判断とは無関係であることを如実に示しています。
この件に関する識者たちの発言に、〈卑劣さへの鈍感〉という事件の核心を衝くものが少ないと思われるのは気のせいでしょうか。
また、2月27日、仙台市若林区の消防署で署員が全員出動した隙に、施錠してあった通用口のドア及び二階の事務所のドアが破られ、防火衣や現金などが盗まれました。
出動理由は、近くにある無人のバス停待合所における不審火の発生でした。
阪神大震災における混乱で一件も盗みがなかったという〈日本の神話〉は、もう、過去のものなのでしょうか。
実に、悪を行わないためには、悪を行えない心になる以外、いかなる方法もないのです。
その努力が強力に行われない限り、社会と人心の変化は次々と新たな悪を発生させ、防止策とのイタチごっこは永遠に続くことでしょう。
さて、悪心が動いていた尼僧たちは、チューラパンタカ の説法によって心に大転換が起こり、悟り を開きました。
釈尊の説法でも悪心が去らなかったのにこのタイミングで尼僧たちの心が一気に浄化されたのは、チューラパンタカ の変貌に驚いたことによる影響が大きかったと思われます。
また、記憶力や理解力の鈍かったチューラパンタカ は、釈尊の教えをくり返し思い出し考えているうちに、覚えの早い人たちが「覚えた」からと一丁上がりにし次の教えを覚えようと走る頭のはたらきとは違う能の部分が活性化され、教えが血肉と化していたのではないでしょうか。
だから、きっと、言葉や態度に聴く人の魂へ響く力が伴っていたのでしょう。
悪心は、根こそぎ消滅させられれば二度と毒花を咲かせられません。
なぜなら、悪をもたらす悪心=煩悩 (ボンノウ)は心の現す仮の相(スガタ)であって、仏性 こそが心の真の相(スガタ)だからです。
〈時ならぬ冬景色〉
①物覚えが悪く、年老いてから出家修行者となったチューラパンタカ は、極めて簡明な教えをきっかけとして悟り を開きました。
私たちのいのちのはたらきは、身体と言葉と心を通して顕れます。「釈尊はこう指導されました。
『口ではつまらぬことを言うな。
心では我がままを抑えよ。
身体では悪いことをするな。
こうして生きれば、悟り を開けるであろう』」
魂の動きは身口意 (シンクイ)に連動しています。
だから十善戒は、「不殺生・不偸盗(フチュウトウ)・不邪淫」の三つで身体が悪業をつくらぬよう戒め、「不妄語・不綺語(フキゴ)・不悪口(フアック)・不両舌(フリョウゼツ)」の四つで言葉が悪業をつくらぬよう戒め、「不慳貪(フケンドン)・不瞋恚(フシンニ)・不邪見」の三つで心が悪業をつくらぬよう戒めています。
これを「身三(シンサン)口四(クシ)意三(イサン)」と言い、この戒めを知らぬ仏教徒はいません。
そして仏教において特徴的なのは、罰が当たるから戒めを守るのではなく、〈自然に戒めを生きる〉ことをめざすのが人の道であるという点です。
当山では、日々「我、線香のごとく自他を清め、浄戒そのものになりはてん」と誓っています。
釈尊が、身口意 を正しく用いればそれが悟り への入り口であり、悟り への到達法であると説かれたとおり、密教では、身口意 を清め守る護身法(ゴシンポウ)をもって入り口とし、護身法が体得できれば行者としての完成であるとされています。
修行なり修法なりの始めに護身法を行わない密教行者はおらず、隠形流居合でも、稽古の初めには必ず実践しています。
最も肝心なことは実に簡明に示されるものです。
②意地悪な気持でいた尼僧たちは、一転して悟り を開きました。
いつも釈尊の指導を受けているのに、尼僧たちは愚鈍なチューラパンタカ をいじめてやろうと待ちかまえていました。「チューラパンタカ は、釈尊から学んだとおり、身体と言葉と心とがはたらいている状態、そうなっている原因、精神的罪福と肉体的罪福、あるいは精神集中して心を安定させる方法などを説きました。
説法を聞いた尼僧たちは、自分たちのありようが道に外れていたことに深く気づき、真理を知って喜び、揃ってアラカンの悟り を得ました。」
こんなことがあってはおかしいのですが、決して珍しくないケースと言えましょう。
たとえ朝晩お経を唱えていようと、毎日本を読んでいようと、毎週お寺詣りをしていようと、そして寺院で修行していようと、心が善きはたらきをするように変化向上しない限り、心はいつでも悪しきはたらきをします。
最近、大学の受験生がネットで問題の解答を求め、偽計業務妨害 容疑で逮捕されました。
学校に差別をするのではありませんが、京都大学という日本で最高レベルの知力が求められる大学を受験する若者が、小学生でも知っているカンニングという不正行為を堂々と行い、結果的に、日本中の試験会場のありようをガラリと変えてしまった事件は、社会的な科学の発達も、個人的な頭脳の優秀さも、善悪の判断とは無関係であることを如実に示しています。
この件に関する識者たちの発言に、〈卑劣さへの鈍感〉という事件の核心を衝くものが少ないと思われるのは気のせいでしょうか。
また、2月27日、仙台市若林区の消防署で署員が全員出動した隙に、施錠してあった通用口のドア及び二階の事務所のドアが破られ、防火衣や現金などが盗まれました。
出動理由は、近くにある無人のバス停待合所における不審火の発生でした。
阪神大震災における混乱で一件も盗みがなかったという〈日本の神話〉は、もう、過去のものなのでしょうか。
実に、悪を行わないためには、悪を行えない心になる以外、いかなる方法もないのです。
その努力が強力に行われない限り、社会と人心の変化は次々と新たな悪を発生させ、防止策とのイタチごっこは永遠に続くことでしょう。
さて、悪心が動いていた尼僧たちは、チューラパンタカ の説法によって心に大転換が起こり、悟り を開きました。
釈尊の説法でも悪心が去らなかったのにこのタイミングで尼僧たちの心が一気に浄化されたのは、チューラパンタカ の変貌に驚いたことによる影響が大きかったと思われます。
また、記憶力や理解力の鈍かったチューラパンタカ は、釈尊の教えをくり返し思い出し考えているうちに、覚えの早い人たちが「覚えた」からと一丁上がりにし次の教えを覚えようと走る頭のはたらきとは違う能の部分が活性化され、教えが血肉と化していたのではないでしょうか。
だから、きっと、言葉や態度に聴く人の魂へ響く力が伴っていたのでしょう。
悪心は、根こそぎ消滅させられれば二度と毒花を咲かせられません。
なぜなら、悪をもたらす悪心=煩悩 (ボンノウ)は心の現す仮の相(スガタ)であって、仏性 こそが心の真の相(スガタ)だからです。
〈時ならぬ冬景色〉
