2月23日、NHK文化講座「生活と仏法
」において、朝日新聞2月19日号に掲載された「ああ相撲
! 勝ち負け、すべてではない」を題材にしました。
音楽評論家吉田秀和 氏は、勝ち負けのおもしろさだけではない大相撲 の醍醐味を述べ、「今相撲 は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。」と指摘しています。
印象深いのは、〈そうなるべくしてなった〉ような勝負の結果について、当事者間でしかわからない阿吽の意志があったように感じても、それに目くじらを立てるのではなく、そこも又、文化のもたらす繊細な面としてとらえている点です。
闘病から復帰した第一戦で大鵬に勝った柏戸、憎らしいほど強い横綱北の湖を破った人気絶頂の大関貴ノ花などを取りあげ、言外に主張しています。
「皆、その結果に喜んだではないか。
勝者をも敗者をも、八百長と糾弾しなかったではないか。
むしろ、言葉には出さずとも、よくやってくれたと敗者を惻隠 (ソクイン)の情で讃えたではないか。
プロの真剣勝負と観客があっての娯楽、その両面が繊細なバランスで成り立っている国技を守ろう。」
大相撲 の力士には、プロとしての圧倒的な力量と、興業を成り立たせる役者という二面性が求められており、ギリギリのところでは、観客へ歓呼の声をもたらす結果を出しても咎められるべきではないということです。
もちろん、今回の事件では堂々と金銭がからみ、十両へ上がるかどうかなど低レベルでの調整があったらしいという報道であり、そうした取引が常態化すれば大相撲 は堕落します。
真相解明はなされねばなりません。
その一方で、大人の文化として深められ、磨かれ、伝えられてきた国技をどのように運営してゆけば良いのか、創造的な智慧が求められています。
Aさんが言いました。
「もう、『惻隠 の情』は死語になたのではないでしょうか?
かつて、作家の故井上ひさし 氏が離婚した時、記者たちから心境を訊ねられ、一言『惻隠 の情』とだけ答えたのが印象に残っています。
あえて言挙(コトア)げしないでおくという文化が薄れて、何でも白か黒かに分けてしまうギスギスした時代になったような気がします。」
井上ひさし 氏はかなりの暴力亭主で、奥さんはよく耐えていたという説もあり、夫婦間のあれこれはわかりませんが、さすが言葉のプロといった感があるエピソードです。
確かに死語になりかけているらしく、日本語入力システム「ATOK15」で「そくいん」と入力しても漢字に変換されないのにはガッカリさせられました。
Bさんが言いました。
「小学校の教師時代に、障害を抱えたお子さんの学級を進んで受け持たせていただきましたが、その数年は人生で最も勉強させられた時期になりました。
私は〈できる子〉も〈できない子〉も正しい意味でまったく平等に扱い、〈できない子〉に何とか〈できる子〉と同じような達成感や自信をつけさせようと努力しましたが、障害を抱えたお子さんの親御さんたちは、とても強硬な姿勢を持っておられる方が少なくありません。
父兄への対応には、肝心のお子さんへの教育に勝るとも劣らない時間と神経を使わされました。
黙って精一杯の思いやりをかけているのに、重箱の隅をつつくような問題で声高に『正論』を唱え、決して譲ろうとしない姿勢にはほとほと困りました。
お互いに惻隠 の情を持てば、もっと気持ち良く子供を教育できる現場になるのになあと思ったものです。」
心が失われれば言葉が失われ、言葉が失われれば心が失われます。
「惻隠 の情」は、消えるにはあまりに惜しい言葉です。
結局2時間、この言葉に関する論議で過ぎてしまいましたが、その価値は充分にありました。
ところで、辺見庸 氏は詩「剥がれて 」において、言(コトバ)の喪失を衝いています。
その抜粋です。
〈伊藤さんのフクロウ〉
音楽評論家吉田秀和 氏は、勝ち負けのおもしろさだけではない大相撲 の醍醐味を述べ、「今相撲 は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。」と指摘しています。
印象深いのは、〈そうなるべくしてなった〉ような勝負の結果について、当事者間でしかわからない阿吽の意志があったように感じても、それに目くじらを立てるのではなく、そこも又、文化のもたらす繊細な面としてとらえている点です。
闘病から復帰した第一戦で大鵬に勝った柏戸、憎らしいほど強い横綱北の湖を破った人気絶頂の大関貴ノ花などを取りあげ、言外に主張しています。
「皆、その結果に喜んだではないか。
勝者をも敗者をも、八百長と糾弾しなかったではないか。
むしろ、言葉には出さずとも、よくやってくれたと敗者を惻隠 (ソクイン)の情で讃えたではないか。
プロの真剣勝負と観客があっての娯楽、その両面が繊細なバランスで成り立っている国技を守ろう。」
大相撲 の力士には、プロとしての圧倒的な力量と、興業を成り立たせる役者という二面性が求められており、ギリギリのところでは、観客へ歓呼の声をもたらす結果を出しても咎められるべきではないということです。
もちろん、今回の事件では堂々と金銭がからみ、十両へ上がるかどうかなど低レベルでの調整があったらしいという報道であり、そうした取引が常態化すれば大相撲 は堕落します。
真相解明はなされねばなりません。
その一方で、大人の文化として深められ、磨かれ、伝えられてきた国技をどのように運営してゆけば良いのか、創造的な智慧が求められています。
Aさんが言いました。
「もう、『惻隠 の情』は死語になたのではないでしょうか?
かつて、作家の故井上ひさし 氏が離婚した時、記者たちから心境を訊ねられ、一言『惻隠 の情』とだけ答えたのが印象に残っています。
あえて言挙(コトア)げしないでおくという文化が薄れて、何でも白か黒かに分けてしまうギスギスした時代になったような気がします。」
井上ひさし 氏はかなりの暴力亭主で、奥さんはよく耐えていたという説もあり、夫婦間のあれこれはわかりませんが、さすが言葉のプロといった感があるエピソードです。
確かに死語になりかけているらしく、日本語入力システム「ATOK15」で「そくいん」と入力しても漢字に変換されないのにはガッカリさせられました。
Bさんが言いました。
「小学校の教師時代に、障害を抱えたお子さんの学級を進んで受け持たせていただきましたが、その数年は人生で最も勉強させられた時期になりました。
私は〈できる子〉も〈できない子〉も正しい意味でまったく平等に扱い、〈できない子〉に何とか〈できる子〉と同じような達成感や自信をつけさせようと努力しましたが、障害を抱えたお子さんの親御さんたちは、とても強硬な姿勢を持っておられる方が少なくありません。
父兄への対応には、肝心のお子さんへの教育に勝るとも劣らない時間と神経を使わされました。
黙って精一杯の思いやりをかけているのに、重箱の隅をつつくような問題で声高に『正論』を唱え、決して譲ろうとしない姿勢にはほとほと困りました。
お互いに惻隠 の情を持てば、もっと気持ち良く子供を教育できる現場になるのになあと思ったものです。」
心が失われれば言葉が失われ、言葉が失われれば心が失われます。
「惻隠 の情」は、消えるにはあまりに惜しい言葉です。
結局2時間、この言葉に関する論議で過ぎてしまいましたが、その価値は充分にありました。
ところで、辺見庸 氏は詩「剥がれて 」において、言(コトバ)の喪失を衝いています。
その抜粋です。
「意味から剥離し。
意味が剥がれ。
~
砂鉄を表現しえず、錬鉄に拒まれ、錬鉄を言いえず。
~
実体はかえって消失し。
言は実体の消失をもはや言いえず。
あるいはただ符帳のみ。
記号のみ。
痕を消され。
消去され。
コード化され。
角のコンビニで売られ。
~
コピーされ。
転換され。
複雑骨折し。
画面を浮遊し。
サマライズされて。
くびられ。
吊され。
ダウンロードされ。
ワード検索され。
脱臼し。
崩落し。
紛状化し。
晒され。
添付され。
跡形もなく飛散し。
~
言霊から剥離し。
二束三文となり。
パスワードとして涸れ。
ブログで転がり。
~
神の舌からはがれ。
猛る神にさわりえず。
どう祟られたか知りもせず。
祟られて祟り。
~
哀しみの幽暗を言いえず。
幽暗の奥に入りえず。
ただはがれ。
彷徨い。
~
無を語りえず。
沈黙から疎まれ。
窒息し。
それでもヘラヘラ笑い。
~
もはなにもの曳航せず。
なにものにも曳航されず。
言は粉砕され。
瀕死の遊離魂として。
プカリプカリ浮き流れ。
漂い。
ただ漂い。
それでもうたわれて。
すべての無意の語群として。
あるいはすでに死にたえた遊離魂として。
宇宙の塵になるか。
ほろほろと宙を回るか。
ほろほろと薄命の宙を回り。
はがれ。
すべての愛から言が剥がれて 。
愛が剥がれて 。
剥がされて。
くり抜かれて。
無の峡谷をどこまでもどこまでも堕ちていけ。
言は剥がれ剥がれて 剥がされて……。」
〈伊藤さんのフクロウ〉
