「自分が生きてゆく」ことは「皆と生きてゆく」ことと同義です。
 いのちも心も〈ネットワーク 〉の中でしか生じられず、保てないからです。

 たとえば、ご飯を考えてみましょう。
 いただきますと自分の口へ届くまでの経過において、自分の果たした役割は、いくつあるでしょう?
 また、米を作るところから、ご飯として炊き上がって茶碗に盛られ箸を添えられるところまで、いったいどれだけの人々が関わっているでしょうか?
 一粒の米も、種として蒔かれ、害虫や干魃などにやられずに実り、刈り取られるまでの間、どれだけのプラスの条件とマイナスの条件を受けつつ過ごしたことでしょうか。

 たとえば、心ならずも引きこもり の状態に陥った人々が人間としての矜持や倫理感を失わないで日々を過ごせるのは、文字であれ、映像であれ、電話であれ、精神活動に発する情報と接しているからではないでしょうか。
 私は、道に迷った若き日、窓を塞いだアパートの一室を真っ暗にして鍵をかけ、数日間閉じこもったことがあります。
 本も読まず、もちろん、電話にも出ません。
 そして、こうしたシャットアウトの状況は「安」よりも「狂」へ向かわせることを知りました。

 たとえば、自死をはかり、思いもよらない形で一命をとりとめた方が生き直しへ踏み出せるのは、いかなる形であれ、「 」や「 」という言葉で表されるネットワーク の持つ力によるのではないでしょうか。

 生きるとは、共に生きることです。
 では、共に生きるための根本的な心構えは何であるか?
 それは四摂事 (シショウジ)です。

布施 (フセ)
 自分が率先して誰かの何かのためになり、結果的に、 の人々をも、自己中心を離れる布施 の実践へと導くのです。
 匿名でも、実名でも、タイガーマスク現象が根付くことを祈っています。
愛語 (アイゴ)
 思いやりに発する言葉を用い、結果的に、 の人々をも、悪意や怒りや怨みを離れた愛護の実践へと導くのです。
 釈尊にも、お大師様にも、粗暴な心と言葉でぶつかってきた相手を愛護で救った物語があります。
 北風と太陽のイメージも大切です。
利行 (リギョウ)
 教えに基づく実践を行い、結果的に、 の人々をも、十善戒や六波羅密などの実践へと導くのです。
 精進している人の姿には徳の香りがあります。
同事 (ドウジ)
 他人の心や立場を忖度し、それをふまえた善行を実践し、結果的に、 の人々をも、他人の心や立場を考える実践へと導くのです。
 仏法の慈悲 は、神の立場から下へ施す愛ではなく、隣にそっと寄り添う友情から発する思いやりです。
 心を寄り添わせる同事慈悲 の実践です。

 このように学び、実践し、〈自分がまっとうに〉生きれば、必ず〈共にまっとうに〉生きられるこの世になります。
 互いが発する徳の香りこそ、最も信頼できるネットワーク をもたらすのではないでしょうか。

〈共に咲いています〉

龍のブログ-福寿草