2月12日に書いた「お布施 からリベート」には、「檀家 』宣言」以来の反響がありました。
「私は住職に引導を渡してもらいたいから、私より長生きしてください」。
 涙がこぼれました。
「法楽寺が嫌がらせをされるのではないかと心配です」。
 そんなことはないし、あっても、もちろん、くじけません。
「少しは妥協しながら、ゆとりを持ってやってはどうですか?」。
 子供の頃の恩師は、今でも〈生徒〉の安全を願っておられます。

ゆかり人の会 」会員伊藤さんが「お風呂場基金」のためにと提供してくださったパッチワークの作品へ皆さんの手がどんどん伸びて、2月14日、伊藤さんは手元にあった作品を補充されました。
「お風呂場基金」への関心も高まり、Aさんからメールをいただきました。
「お風呂や寝るところがないのを初めて知りました。
 3月にマイホームが完成するのですが、アパートで使用していた洗濯機、給湯器、温水器、ウォシュレットがあるのですが、もしお使いになるのであれば寄付したいと思いましてメールしました。
 使用していた中古なので新品のものとは違いますが、まだまだ大活躍してくれると思うので新品ではないとダメだとか使い道がないとかでなければ、よければ・・・と^-^
 少しでもお役に立てればと思います。」
 おかげさまで、「ゆかり人の会 」の方々が自主的に初めてくださった「お風呂場基金」への賛同者は130名を越え、金額も180万円に達しています。
 庫裡(クリ…住職などの住居を主とした建物)を造るといっては億単位の資金を集めてきた慣習に比べれば「ケタが違う」と笑われるかも知れませんが、私はこうした成り行きに誇りを持ち、真の布施 行が着々と広まっている事実に大きな手応えを感じています。

 長いこと仏教界を見守ってきたBさんが来山されました。
「戦後の日本では、アメリカをはじめとする占領軍によるセックスの解放、スポーツの奨励、シネマの発展という『3S(スリーエス)政策』が徹底されました。
 自由の名のもとに、日本人の心と文化の基盤である仏教と神道が教育などの場から追放され、一人一人がバラバラに自分の欲を満たそうとする方向へ突き進んだ結果が、今、問題とされている〈無縁社会〉の到来です。
 NHKの特集をなるべく欠かさず観ていますが、たとえ超一流企業で活躍していてすら、一旦、何かの原因で歯車が狂えば、もうどうすることもできない成り行きで〈孤独死〉へ向かってしまう事実に、心底、恐ろしくなります。
 大手メディアの流す情報を注意深く見てみると、いまだに日本人の10人に1人以下の信者しかいないキリスト教に関する記事は、仏教や神道に関する記事の10分の1を遙かに超え、報道の多くは〈善行〉に関するものです。
 しかも、バチカンや教会など世界中で長期間にわたって続いている性的虐待などのおぞましい事実は、たまに、小さくしか報道されません。
 寺院や僧侶や葬儀などに関する〈問題〉はしばしば大々的にとり上げられ、まじめな活動はそれほど報道されません。
 仏教界のお布施 は四六時中問題視されているのに、あまりお布施 が集まらないように見える教会がなぜ町の真ん中にできるのか、キリスト教はいかなる戦略で世界の津々浦々にまで莫大な資金を流して教会を建て続けているのか、キリスト教は世界規模の金融資本や軍需産業とどうリンクしているのか、などの文明的問題はほとんど論議されません。
 住職の行動は小さなものでしょうが、私たち日本人が長い歴史の中で培ってきた大切な心のよりどころを着実に復活させてください。
 日本がこのまま、本来の日本と正反対の無縁社会になり果ててしまわないよう、頑張ってください」。
 
『雪の下の炎』で、バルデン ・ギャツォ師は言われます。

「チベット人が迫害されている情報に接すると、じっとしていられなくなるのです」。

 そして、不屈の活動を続けておられます。

 上田紀行 氏は「静けさの中の闘志」に書いておられます。

 仏教の僧侶と〝闘志〟とは似つかわしくない、と思う人もいるだろう。
 仏教徒は心の平安を追求する教えだ。それが「闘い」とは何事だ。特に日本の僧侶達はそんなことを言いそうだ。
 しかし、2年前にダラムサラでダライ・ラマ 14世と2日間対談させていただいたとき、
「弱者への差別や暴力を見ると、怒りの気持が湧き上がってきます。
 しかし、日本の僧侶達の中には、そんなことで怒っているのは修行がたりない。
 何が起こってもニコニコ暮らせ、と言わんばかりの人もいます。
 仏教徒は怒ってはいけないのでしょうか?」
という私の質問に、ダライ・ラマ 14世は毅然として答えた。
「怒りには、慈悲 から生じるものと、悪意から生じるものという、二つのタイプがあります。
 心の根底に他者に対する思いやりや慈悲 があって生じている怒りは、有益なものであり、持つべき怒りです。
 他者を傷つけたいという悪意から生じる怒りは、有害で鎮めるべき怒りです。
 悪意からの怒りは人に向けられます。
 しかし、慈悲 からの怒りは人に対してではなく、行為に対して向けられます。
 ですから原因となる行為がなくなれば、怒りも消滅するのです」
 それまで快活に話されていたダライ・ラマ 14世が、俄然エキサイトし、身を乗り出して熱く語り出した瞬間だった。
 そして、
「それでは社会的不正に対する怒りは、その不正がなくなるまで、ずっと持ち続けるべきなのでしょうか」
と問いかけると、
「そうです。
 その目的が果たされるまで怒りの気持は維持されるべきです。
 たとえば、中国が人権を侵害し、拷問を続けているといったような、ネガティブな行為が続いている場合、そういった間違った行いが存続している限り、それをやめさせようとしう怒りの気持は最後まで維持されるべきなのです」
と答えられたのだった。(『目覚めよ仏教!─ダライ・ラマ との対話』NHKブックス)

 まことに、慈悲 行は不屈の闘志をもって行われます。
 自分の平安や安穏たる生活を求めるのは仙人への道であり、仏法の理想的人間像である菩薩(ボサツ)をめざす道とはかけ離れています。
ゆかり人の会 」役員であるCさんから質問を受けました。
「住職は後継者を選ぶ場合、子供と無心に遊ぶ良寛さんのようなイメージの人ではだめなんですか?」。
 即座にダメですと答えました。
 観音様の慈悲 とお不動様の憤怒を兼ねそなえた僧侶が輩出しなければ、限りなく無慈悲 な社会へ向かっている日本丸の進路を変えさせられないと信じているからです。
 これからも、皆さんと共に、真の菩薩行を実践して行きたいと願っています。

〈追加されたまごころ〉


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