人生相談 にご来山された35才のAさん。
 ある日突然、職場にいる〈霊能者 〉から悪霊 に憑かれていると指摘され、塩をふりかけなさい、神様にお祈りしなさいなどといろ〈指導〉を受けているうちに、すっかり疲れ果てました。
「ご住職は悪霊 が見えますか?」。
 青い顔をして真剣そのものです。
 即座にお答えしました。
「見えません」。
「エッ!」
 Aさんは固まってしまいました。
 大丈夫ですよと笑って、言葉を継ぎました。

 正当な行者 は、観るべきものは観え、聴くべきものは聴こえるための修行をしています。
 だから、無いものや、妄念がつくる妄想は見えません。
 密教行者 は、『大日経 』の説く「十縁生句 (ジュウエンショウク)」を修行しているので、妄想に取り憑かれません。
 心に浮かんで修行を妨害する十種類の勘違いを断つのです。

①幻(ゲン)
 いわゆる「まぼろし」です。
 手品師が見せたり、薬物や呪術で見えたりする奇妙なものです。
②陽炎(ヨウエン)
 いわゆる「かげろう」です。 
③夢(ム)
 いわゆる「夢」です。
 よく「夢か現(ウツツ)か」と言いますが、ボーっとしていたり、過労になったりすると二つのものの境界があいまいになります。
④影(ヨウ)
 鏡に映った像などは、現実そのものにしか見えません。
⑤乾闥婆城(ゲンダツバジョウ)
 乾闥婆は、天上界で音楽を奏でる妖精のような神であり、その根城が乾闥婆城とされています。
 私たちの現実においては、いわゆる「蜃気楼(シンキロウ)」です。
 実体はないのに、いかにもありそうに見えます。
⑥響(コウ)
 音声によって生ずる空気の振動です。
⑦水月(スイガチ)
 水面に映った月です。
⑧浮泡(フホウ)
 水に浮かぶ泡です。
⑨虚空華(コクウゲ)
 目が眩んで星や花が飛ぶように見える場合があります。
 空に浮かぶ虹も、橋に見えますが橋がかかってはいません。
⑩旋火輪(センカリン)
 火のついた松明をぐるぐる回すと火の輪が見えます。
 しかし、輪はありません。

 これらはすべて無自性(ムジショウ)で、幻も陽炎も夢も、それ自体が確たる存在ではありません。
 密教行者 は、「十縁生句 (ジュウエンショウク)」を心に刻んでいます。
 だから、ご本尊様と一体になる修法によってたとえ霊感らしきものを得て何かを見たり聞いたり、あるいはみ仏とお会いしたりする場面があっても、その状況にとらわれず、淡々と目的に向かって修法を行うのみで、体験に執着したり、縛られたりはしません。
 幻や陽炎や、心の生み出すものたちに迷わぬよう、厳しく戒められています。

「あらゆる悟りへの手だては、この十縁生句 によって心の垢を清めることに帰着する。
 ゆえに、十縁生句 が最も肝心である」。


 私たちは、心のありように応じてさまざまなものを、さまざまに見たり聞いたりします。
 臆病な人が暗い山道を一人で歩くと、ガサッと聞けば「クマか!」と飛び上がり、サワサワと吹いてきた生温かい風にオバケを感じてブルッとなったりします。
 思いこみの強い人は、〈そんな気がする〉だけで、いとも簡単に「~が見える」「~が聞こえる」という言葉を口にし、正しいものの見方である「正見(ショウケン)」から離れる怖れがあります。
 そうなると、情報を正確に分析し、その関係を見極め、全体を組み立てて適切な判断を下すことができなくなり、自分の判断を誤るだけでなく、冒頭の霊能者 のように、周囲へ困惑や不安や迷惑を振りまくことにもなりかねません。
 行者 ならずとも、思いこみに陥らないための「十縁生句 (ジュウエンショウク)」は学んでおきたいものです。

 では、密教 の修法には何も〈非日常的な次元〉はないのかと言えば、そうではありません。
 たとえば、人生相談 において、ご質問に応じて相手の近未来と目的達成の手だてをお話ししている最中、「そう聞こえるのですか?」と問われる場合があります。
 そんな成り行きではなく、誰かの言葉で聞こえなくても、きっと虚空蔵(コクゾウ)求聞持法(グモンジホウ)などの修練が適切な言葉を紡ぎ出させているのでしょう。
 決して、行者 は誰かから〈お告げ〉を聞いているのではなく、行者 の話も、決して相手への〈お告げ〉ではありません。
 み仏と一体になった状態が語らせるので、言葉は自分の言葉であると同時に、み仏の言葉でもあり、会話は当然、道理で成り立っています。

 また、何度か特殊なご加持 (カジ)を受けているBさんが、こんな感想を口にしたこともあります。
「ご加持 の最中に動きが出る場合、引力や催眠術などで否応なく動かされているようには感じられません。
 自分で動いているとも思えるのですが、よく観察してみると、普段、意識的に、あるいは無意識のうちに動くのとは明らかに違っています。
『これ何?』といった感じなのですが……」。
 Bさんは明らかに、ご加持 で救済されています。
 これはトランス状態や妄想につかまった状態ではなく、理性は冷静なはたらきを失っていません。
〈動き〉が誰の力によるのかを詮索するよりも、救済されていることが大切なのであり、他力、自力といった区別をするのは無意味です。
 そもそも、自分が〈本来み仏〉である状態に近づいている時、み仏と自分を区別する必要がありましょうか。

 二つの例を考えると、袈裟衣をまとって人生相談 を受ける行者 は法によって、み仏と一体になっており、ご加持 を受ける人もまた、み仏と一体になっています。
 これが密教 の即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 このあたりが〈非日常的〉と言えば、そういうことになるのでしょう。

 Aさんは、話にとても興味を持たれたようです。
 すなおなAさんはきっと、み仏へ近づく生き方をされることでしょう。

〈隠形流(オンギョウリュウ)の本尊摩利支天(マリシテン)〉

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