2月11日付の朝日新聞に「お布施 からリベート  僧侶葬祭業者 不透明な慣習 」なる大見出しが踊った。
 当山にとっては、まことに驚天動地の情報である。
 一読したが、看過できない。

「葬儀で僧侶 に包む『お布施 』。
 その一部を僧侶葬祭業者 に渡している慣習 があることが朝日新聞の調べでわかった。
 読経の『仕事』を紹介してくれる業者に対する一種のリベート とみられる。
 お葬式の舞台裏で何が起きているのか」

 当山はこうした慣習 を聞いたこともなければ、もちろん、たった一度たりとも、葬祭業者リベート のやりとりをした歴史もない。
 リベート は売上割戻(ワリモドシ)あるいは仕入割戻(ワリモドシ)という商習慣であり、リベート =悪ではない。
 しかし、僧侶 の修法は宗教行為であり、商習慣に取りこまれてはならない。

「『ご遺族をだましてお布施 をつり上げているのも同然で申し訳ない。
 悪習でやめるべきだが、我々は弱い立場でどうしようもない』
 東京都品川区に住む浄土真宗本願寺派の僧侶 (65)は、朝日新聞の取材にこう打ち明けた。
 葬祭業者 から斎場に派遣され、読経する『仕事』を週2~3回ほど請け負っているという。
「拠点にしていた長野県の寺の檀家が激減し、15年ほど前に東京に出てきた。
 初めて葬祭業者 から仕事を紹介されたとき、リベート を求められた。
 驚いたが『関東では慣習 ですから』と言われ、渋々応じたという。
 半年後、別の業者からお布施 の7割の支払いを要求された。
 『そんな罰当たりな』と断ると、『二度と頼まない』と言われ、その後3ヶ月ほどは、どの業者からも依頼が無くなった。
 今では自ら葬祭業者 に『営業』をかけて、仕事をもらっているという。」
「横浜市にすむ僧侶 (69)は、遺族からお布施 を受け取ると、けさ姿のまま近くの銀行に行き、4割を現金自動出入機(ATM)から振り込んでいた。
 葬祭業者 に指定された振込先は、聞いたこともない宗教法人 名義の口座だったという。」

「食えないから」という理由で世俗の世界へ入るならば、衣を着ている資格はない。
 僧侶 は法を結ぶ出世間の行者 である。
 出世間で生きていればこそ、人の死において引導の修法を行い、せっぱ詰まって世間的解決方法に窮した皆さんの人生相談に乗り、共に苦へ立ち向かうことができる。
 出世間でない者が衣を身にまとうのは、手術の技術がないのに手術室でメスを手にする外科医のようなものであり、欺瞞でしかない。
 僧侶 が業者の使い走りになったら、おしまいである。
 僧侶 はお経の〈読み上げ手〉として、一連の儀式に参加しているに過ぎなくなり、「亡き人へ修法をもってこの世とあの世の区切りをつける」宗教行為である葬儀の根幹は崩壊する。
 僧侶 の存在意義は、求めに応じて仏法を具現化できる法力を身につけ、世間的方法ではなし得ない宗教行為を行うところにあり、そのためにこそ出世間で生き、修行し、衣をまとって修法を行う。

 これまで数多くの他寺院の檀家さんたちが人生相談にご来山された。
お布施 をお包みすると『これでは食えない』と言って突き返されました」。
 こうした類のお話は聞き飽きるほど耳にした。
 大寺の住職であろうが、貧乏寺の弟子であろうが、僧侶 はひとしく生涯、〈一介の行者 〉である。
 食えようが食えまいが、祈り、法務に邁進する以外、生きようはない。
 篤信の方からいただいた山里の古家で興した当山は当初、托鉢に歩いても文字どおり食うや食わずであり、夫婦してタンポポやツクシも食べた。
 百円のイワシの缶詰を分け合って食べた。
 しかし、生かしていただき、こうして息をしている。
 生きられるか生きられないかはご本尊様がお決めくださることである。
 なぜなら、たとえダイコン一本であろうとも、寺院へのお布施 はすべてご本尊様へ対する善男善女からの尊い捧げものであり、世間的なりわいを離れ、み仏へお仕えする行者 はその捧げものをご本尊さまとしてのみ仏からいただくしか、生きる方法はないからである。
「こんな愚かしく未熟な自分が、これをいただいて良いのか?」という自らへの問いかけを忘れた瞬間、行者 としての堕落が始まる。

「かつては地元の葬祭業者 が『うちで手伝わせてください』と頼んで来たが、檀家の減少に従って読経の依頼も減り、立場が逆転した。
『檀家は先祖代々引き継がれてきたので、さしたる〈努力〉をしなくても食べていけたが、今では普通の自営業者と同じ。
 寺の存続のためにはやむを得ない』」
葬祭業者 へのリベート 分は、結果的に喪主側の支払うお布施 に上乗せされている。
 千葉県柏市の会社員の男性(59)は一昨年、市内の斎場で父親の葬式をあげた。
 広島県にある菩提寺と付き合いが無くなり、斎場側に同じ宗派の僧侶 を紹介してもらった。
『戒名料』として20万円を僧侶 に包むと、お通夜でのお経は20分で終わった。
 斎場の係員に『20万円は最低ランクですから』と言われ、翌日に『お車代』として10万円包むと、告別式での読経は40分に伸びたという。
 この斎場を運営する業者も、お布施 の一部を業者から受け取っていた。
 男性は『悪い慣習 はやめて、きちんと個人の安楽を祈ってもらいたい』と話した。」

 なぜ、出世間的修法が金額によって左右されるのか?
 そこには、いかなる宗教的回答もない。
 だから、宗教行為しか行わない当山は一切、お布施 の金額とかかわりなく祈ってご本尊様から戒名をいただき、引導を渡し、年忌供養を行う。
 よほどの事情がない限り、修法についての法話も行う。
 今、何が行われたかをお伝えしないでは申し訳ないし、教えに接していただくところまでが法務であると考えているからである。
 たとえ生活保護を受けておられる方であっても、100人以上の会葬者がある方であっても、一切区別も差別もしない。
 できないのである。
 なぜなら、修法が出世間的行為であるのはもちろん、「死者とは、肉体という衣を脱いでこの世での修行を終え、故郷である本源なる〈み仏の世界〉へ還り行く〈み仏の子〉である」という信念で引導を渡し、お送りするからである。
 死者は、たとえてみれば温泉につかる客のようなものであり、裸のつき合いとなる時、脱いだ衣裳が立派な背広であっても粗末なシャツであっても関係ないではないか。

 続いて、「宗教法人 経由 課 逃れも」と題し、慣習宗教法人 の問題に切り込んでいる。
 北日本を中心に活動している冠婚葬祭業者 は提携する各宗派の寺院に依頼して僧侶 を斎場に派遣し、僧侶 は受け取ったお布施 の2~5割を業者指定の口座へ振り込むが、口座名は宗教法人 になっている。
 宗教法人 は葬祭会館にあり、業者の役員が代表役員を勤めている。

「東京国 局は、休眠状態の宗教法人 を使い、僧侶 からのリベート を『お布施 』と偽って申告していなかった東京の準大手の葬儀会社に対し、05年6月期までの7年間で約8億円の所得隠しを指摘している。」

 実に、僧侶 は〈派遣され〉、〈便利に使われる〉存在になり果てている。
 業者も、僧侶 も、そして、利用者も、気づかぬうちに宗教行為を汚している。
 各宗派の僧侶 を取り揃え、堂々とカンバンを掲げて僧侶派遣業 を営む僧侶 もある。
 人材派遣業 は宗教行為であり得ようか?
 葬祭業者宗教法人 を手に入れてお寺を建てるという話もある。
 商売人がそうした建物を造る目的は何であろうか?

 当山は、葬祭業者 も、納棺師も、仕出し業者も、花屋も、石材業者も、人を送るという尊い仕事を共におこなう〈同志〉であると考え、おつき合いいただいている。
 同志に必要なのはただ一つ、〈プロとしての信頼〉である。
 確かに、紹介する、あるいは紹介してもらうといった仕事への入り口はあるが、同志としての気持はまったく平等、上も下もなく、義理や恩義の貸し借りもない。
 プロとして恥ずかしくない仕事をしたい、同時に、ご縁の方に喜んでもらいたいという一心で、同志は信頼し合い、手を取り合い、支え合っている。
 当山は信念一つで法務を行い続けられることを、ただただ感謝している。
 かけがえのない同志へ、信じて縁の糸を結んでくださる方々へ──。

〈出世間の祈りを共に祈る〉

龍のブログ-ただただ、祈ります