11の善い心はこれで完結です。

⑪不 (フガイ)… さない心
 文字どおり、「他を さない心」です。

「諸の有情 において,損悩をなさざる無瞋(ムシン)をもって性となし, を対治し悲愍するをもって業となす」。

 生きとし生けるものへ対して、怒ったり憎んだり怨んだりして さず しめない心を本性とし、そうした悪心を退治して憐れみの心でものごとを行うのがあるべき姿です。
 慈悲 心の「慈」は、他へ を与えようとする心ですが、それを戒めの面からとらえれば、「無瞋」です。
 怒りや憎しみや怨みをぶつける相手へ、同時に を与えることは決してできません。
 同じように、慈悲 心の「悲」は、他の を抜く心ですが、それを戒めの面からとらえれば、「不 」です。
  している相手から、同時に を抜いてあげることはできません。
 つまり、ここで説く「不 」は、ただ単に「誰かを傷つけてはいけませんよ」という注意だけの問題ではなく、「誰かを決して傷つけられない心をめざしなさい」と積極的に後押しするものであり、それは慈悲 心を磨くところへ行き着きます。

 そもそも仏法で説く十善戒 は、「不殺生 (フセッショウ…みだりな殺生を行ってはならない)」などと戒めの形をとっていますが、真意は、み仏が私たちを縛りつけ、言うことをきかないと、その罪に対して罰を与えるというものではありません。
 みだりな殺生を行えない心が〈み仏の心〉であり、本来み仏である私たちが、その本性で生きることをめざすよう導いてくださっているのです。

 戒律を説く経典に『梵網経 (ボンモウキョウ)』があります。
 不偸盗 (フチュウトウ)に関しての記述です。

菩薩 (ボサツ)は仏性を発揮して慈悲 心を生じ、常に一切の人を助け、福を生ぜしめ、 を生ぜしめなばならない。
 なのに、他人の財物を盗むなら、もはや菩薩 ではない」。

 菩薩 とは、私たちが残忍なワニの心や狡猾なネズミの心でなく、仏性を持った人間の心で生きる理想像であり、私たちが抱く「人はなぜ生きるか?」「人が生きる目的は何か?」という疑問への解答がここに示されています。
 4回に分けて考えてきた、「善い心」とは、菩薩 として生きる心構えでもあります。
 これが道理として納得できれば、もはや、迷う必要はありません。

 2月6日を第一回として、お習字の会がスタートしました。
 6人の善男善女が筆の持ち方、墨の擦り方から学び始めました。
 教えていただく一つ一つが、勝手なクセを正し、本来の美しい字が書ける心と身体になるための一歩一歩です。
 先生は「私も一緒に学ばせていただきます」と言い、お手本を書かれました。
 その通り書こうとしても、簡単にはできません。
 み仏が経典や仏像をもってお手本を示してくださり、私たちが仏弟子としてそこへ一体化しようとするのと同じです。
 示されている理想像へ向かって進もうではありませんか。
 
※次回の「お習字会」は2月19日午後4時より行います。
 事前に電話などでお申し込みください。
 イスも用意しますので、正座が 手な方もどうぞ、ふるってご参加ください。

〈西方浄土への誘い〉

龍のブログ-西方浄土への誘い