⑨不放逸(フホウイツ)…気ままでない心
自己中心の「我(ガ)」に引きずられれば、必ず、「欲しい」「惜しい」と貪ります。
カッと「怒り」、「憎らしい」と怨みます。
執着し、自分に都合の良い「勝手で愚かな」考えを持ちます。
自己中心のままになる放逸は、こうして自他を害する「三毒」を発します。
「三毒通じて三界の一切煩悩を摂し、一切煩悩は能(よ)く衆生を毒すること、それ毒蛇の如く、また毒龍の如し」
(三毒はすべての煩悩を含んでおり、それらが生きとし生けるものを毒害で傷つけるのはあたかも毒蛇や毒龍のようである)
ここで説く「不放逸」とは、精進によってそうした毒を発生させないことです。
言い換えれば、三毒の反対である三つの善い心になり、毒を抑えることです。
必ず自他へ善い結果をもたらす善い心とは「布施」「慈悲」「智慧」です。
施し、慈しみ、賢くなれば、毒は出ません。
人の心は瞬間瞬間に生じる無限の点が連なる形で構成されており、例えばまっ白な点として心が生じている時は、真っ黒な点はどこにもありません。
心を真っ黒な点で紡ぐことが放逸であり、心をまっ白な点で紡ぐことが不放逸なのです。
精進は勇猛心で悪を断じ、不放逸は絶えざる精進で悪を発生させません。
黒い点を多くして心を暗くするか、白い点を多くして心を明るくするか、暗い運命を創るか、明るい運命を創るかは、私たちの努力にかかっています。
⑩行捨(ギョウシャ)…波立たない心
私たちは、見たり聞いたりすれば、必ず、好い、好き、楽しいといったプラスの受け止め方をするか、悪い、嫌い、苦しいといったマイナスの受け止め方をするか、それともどちらでもないか、三様の状態になります。
そして、プラスのものに近づき、マイナスのものから遠ざかり、どちらでもないものへは関心が動きません。
こうした心は「好・悪・平・楽・苦・不楽不苦」の六つにまとめられ、これらが目や耳などの六つの感覚器官を縁として起こり、それが過去にも現在にも未来にも続くので、6×6×3=108となって「百八煩悩」と言われます。
除夜の鐘を108回打つのは、百八煩悩を断ち切って清々しい心で新たな年を迎えようとするからです。
だからといってこうした感受作用を否定はできません。
なぜなら、私たちが「楽しい」と感じてそうしたことを望み、「苦しい」と感じてそうしたことを厭わないならば、自分自身を安全に保てないばかりか、他と争うことすら何ともなくなり、人倫は崩壊するからです。
ここで問題は二つあります。
一つは、残忍なワニに似た脳や、狡猾なネズミに似た脳のレベルで「楽しい」と感じるものへ身を投じるか、それとも仏性の光が輝いて「楽しい」と感じるものへ身を投ずるかという点です。
いじめたり、騙したりして喜んではなりません。
感謝されて心があたたかくなるような喜びを喜ぶならばまっとうな人間になります。
もう一つは、好きや嫌いや無関心などの状態にとらわれるかどうかという問題です。
折角、身を養ってくれるおいしい食事も、過度に摂れば成人病の元になります。
また、一旦誰かを嫌いになったからといって、いつまでも口をきかないようでは人間関係に円滑を欠き、その相手が持っているはずの長所に気づかないままで、尊い〈一期一会〉を台なしにしてしまいます。
好きや嫌いというフィルターの向こう側まで観る冷静な視点を持ちましょう。
それが「行捨」です。
好きな人も、嫌いな人も、善い人も、悪い人もそのままに観て、等しくいのちの輝きを見出し、苦を除き楽を与えようとするのが真の慈悲です。
〈黙っていますが〉
自己中心の「我(ガ)」に引きずられれば、必ず、「欲しい」「惜しい」と貪ります。
カッと「怒り」、「憎らしい」と怨みます。
執着し、自分に都合の良い「勝手で愚かな」考えを持ちます。
自己中心のままになる放逸は、こうして自他を害する「三毒」を発します。
「三毒通じて三界の一切煩悩を摂し、一切煩悩は能(よ)く衆生を毒すること、それ毒蛇の如く、また毒龍の如し」
(三毒はすべての煩悩を含んでおり、それらが生きとし生けるものを毒害で傷つけるのはあたかも毒蛇や毒龍のようである)
ここで説く「不放逸」とは、精進によってそうした毒を発生させないことです。
言い換えれば、三毒の反対である三つの善い心になり、毒を抑えることです。
必ず自他へ善い結果をもたらす善い心とは「布施」「慈悲」「智慧」です。
施し、慈しみ、賢くなれば、毒は出ません。
人の心は瞬間瞬間に生じる無限の点が連なる形で構成されており、例えばまっ白な点として心が生じている時は、真っ黒な点はどこにもありません。
心を真っ黒な点で紡ぐことが放逸であり、心をまっ白な点で紡ぐことが不放逸なのです。
精進は勇猛心で悪を断じ、不放逸は絶えざる精進で悪を発生させません。
黒い点を多くして心を暗くするか、白い点を多くして心を明るくするか、暗い運命を創るか、明るい運命を創るかは、私たちの努力にかかっています。
⑩行捨(ギョウシャ)…波立たない心
私たちは、見たり聞いたりすれば、必ず、好い、好き、楽しいといったプラスの受け止め方をするか、悪い、嫌い、苦しいといったマイナスの受け止め方をするか、それともどちらでもないか、三様の状態になります。
そして、プラスのものに近づき、マイナスのものから遠ざかり、どちらでもないものへは関心が動きません。
こうした心は「好・悪・平・楽・苦・不楽不苦」の六つにまとめられ、これらが目や耳などの六つの感覚器官を縁として起こり、それが過去にも現在にも未来にも続くので、6×6×3=108となって「百八煩悩」と言われます。
除夜の鐘を108回打つのは、百八煩悩を断ち切って清々しい心で新たな年を迎えようとするからです。
だからといってこうした感受作用を否定はできません。
なぜなら、私たちが「楽しい」と感じてそうしたことを望み、「苦しい」と感じてそうしたことを厭わないならば、自分自身を安全に保てないばかりか、他と争うことすら何ともなくなり、人倫は崩壊するからです。
ここで問題は二つあります。
一つは、残忍なワニに似た脳や、狡猾なネズミに似た脳のレベルで「楽しい」と感じるものへ身を投じるか、それとも仏性の光が輝いて「楽しい」と感じるものへ身を投ずるかという点です。
いじめたり、騙したりして喜んではなりません。
感謝されて心があたたかくなるような喜びを喜ぶならばまっとうな人間になります。
もう一つは、好きや嫌いや無関心などの状態にとらわれるかどうかという問題です。
折角、身を養ってくれるおいしい食事も、過度に摂れば成人病の元になります。
また、一旦誰かを嫌いになったからといって、いつまでも口をきかないようでは人間関係に円滑を欠き、その相手が持っているはずの長所に気づかないままで、尊い〈一期一会〉を台なしにしてしまいます。
好きや嫌いというフィルターの向こう側まで観る冷静な視点を持ちましょう。
それが「行捨」です。
好きな人も、嫌いな人も、善い人も、悪い人もそのままに観て、等しくいのちの輝きを見出し、苦を除き楽を与えようとするのが真の慈悲です。
〈黙っていますが〉
