善い心の2回目です。
⑥無痴(ムチ)…無智でない心
仏法では、智慧のないことを愚癡(グチ)と言います。
愚癡は普通、「口にしても仕方がなく、何の意味もないこと」を指しますが、そもそもは仏教用語です。
ここでは、愚癡のない心を「無痴」とし、善い心であると説いています。
仏法は明らかに、智慧を尊ぶ〈道理の宗教〉です。
目に見え耳に聞こえる世界に潜み支配している〈ものの道理〉を知り、目に見え耳に聞こえる世界に起こっている〈ことの内容〉が何であるかを知ってこそ、善行は可能になります。
道理をもって考えず、山勘に頼ったり、何かあればすぐオバケのせいにするようでは、善行は遠ざかります。
私たちは「眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず」と誓い、煩悩によってもたらされている不浄な現実を目のあたりにしても、敵が煩悩であることを忘れず、心の仏性に導かれて生きようとしています。
敵をオバケと見誤っては、「愚癡を対治」できません。
⑦精進(ショウジン)…怠らない心
勇猛心(ユウミョウシン)がなければ煩悩と戦えません。
煩悩は目先の心地良さや安楽へ誘うからです。
後に苦という報いがやってくることを知らず、あるいはそれに気づいても目先の快楽に負ければ、煩悩の命ずるがままに悪行にひたるしかありません。
覚醒剤に蝕まれるのと同じパターンです。
ダライ・ラマ法王は説かれました。
⑧軽安(キョウアン)…頑なでない心
仏道修行は三学(サンガク)によって行われます。
まず、戒律を守ること。
これがなければ、心は右往左往するばかりで、どうにもなりません。
こうした散乱の状態は、心に鳥やヘビやサルなどを飼っているようなものであると指摘されています。
気まま勝手に動く心を鎮めるためには、戒めを意識して自分をそれに〈合わせる〉訓練が必要なのです。
次に、瞑想を行うこと。
これによって、心が舞い上がったり落ちこんだりして傾かず、バランスが良くなります。
そして、智慧による実践です。
深い理解と納得によって疑問や不安がなくなり、心が解放されます。
これが軽やかで自由な「軽安」です。
そもそも、私たちは生まれながら、心に蓋をしています。
たとえば「五蓋(ゴガイ)」です。
欲情・憤怒・睡眠・散漫・疑念、こうしたものが目に見えない蓋となって心を覆い、仏性によるあたたかで潤いのある心の邪魔をしています。
修行によって心のステージが上がれば、もはや蓋は、どこにもありません。
飛行機が上昇して雲を突っ切れば、遮るものがなくなるのと同じです。
自分を煩悩へ解放するのではなく、煩悩から解放しましょう。
〈春めいた日〉
⑥無痴(ムチ)…無智でない心
仏法では、智慧のないことを愚癡(グチ)と言います。
愚癡は普通、「口にしても仕方がなく、何の意味もないこと」を指しますが、そもそもは仏教用語です。
ここでは、愚癡のない心を「無痴」とし、善い心であると説いています。
(さまざまに展開する縁起の道理と、現象世界に起こるできごとを、智慧によってきちんと理解して愚かさを離れ、善行がなされる)「諸(モロモロ)の理と事とのうえに明に解するをもって性となし,愚癡を対治し善を作す」。
仏法は明らかに、智慧を尊ぶ〈道理の宗教〉です。
目に見え耳に聞こえる世界に潜み支配している〈ものの道理〉を知り、目に見え耳に聞こえる世界に起こっている〈ことの内容〉が何であるかを知ってこそ、善行は可能になります。
道理をもって考えず、山勘に頼ったり、何かあればすぐオバケのせいにするようでは、善行は遠ざかります。
私たちは「眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず」と誓い、煩悩によってもたらされている不浄な現実を目のあたりにしても、敵が煩悩であることを忘れず、心の仏性に導かれて生きようとしています。
敵をオバケと見誤っては、「愚癡を対治」できません。
⑦精進(ショウジン)…怠らない心
勇猛心(ユウミョウシン)がなければ煩悩と戦えません。
煩悩は目先の心地良さや安楽へ誘うからです。
後に苦という報いがやってくることを知らず、あるいはそれに気づいても目先の快楽に負ければ、煩悩の命ずるがままに悪行にひたるしかありません。
覚醒剤に蝕まれるのと同じパターンです。
ダライ・ラマ法王は説かれました。
「仏教の修行者は本当の意味での戦士と言えます。
ただし彼が戦っているのは外の敵でなく、わたしたちの心の中の敵、すなわち怒り、憎悪、執着などです。
これこそが本当の敵です。
わたしたちは一度、これらの心理に支配されるや、悪い業・カルマを蓄積することになり、そしてその結果として苦しみを受けることになるのです」
⑧軽安(キョウアン)…頑なでない心
仏道修行は三学(サンガク)によって行われます。
まず、戒律を守ること。
これがなければ、心は右往左往するばかりで、どうにもなりません。
こうした散乱の状態は、心に鳥やヘビやサルなどを飼っているようなものであると指摘されています。
気まま勝手に動く心を鎮めるためには、戒めを意識して自分をそれに〈合わせる〉訓練が必要なのです。
次に、瞑想を行うこと。
これによって、心が舞い上がったり落ちこんだりして傾かず、バランスが良くなります。
そして、智慧による実践です。
深い理解と納得によって疑問や不安がなくなり、心が解放されます。
これが軽やかで自由な「軽安」です。
そもそも、私たちは生まれながら、心に蓋をしています。
たとえば「五蓋(ゴガイ)」です。
欲情・憤怒・睡眠・散漫・疑念、こうしたものが目に見えない蓋となって心を覆い、仏性によるあたたかで潤いのある心の邪魔をしています。
修行によって心のステージが上がれば、もはや蓋は、どこにもありません。
飛行機が上昇して雲を突っ切れば、遮るものがなくなるのと同じです。
自分を煩悩へ解放するのではなく、煩悩から解放しましょう。
〈春めいた日〉
