善い心(その1)
み仏の子である私たちにそなわった「善い心」を考えてみましょう。
①信 (シン)…信 じる心
信 じなければ何も始まりません。
ただし、仏法は、やみくもに「お告げだから信 じなさい」というものではなく、自分自身の理性や感性などを総動員して教えを判断し、〈ものの道理〉として納得できたなら、それをすなおに信 じれば救いの道へ入られると説きます。
入ったなら、その先を導くのは清らかな智慧です。
②慚 (ザン)…自分自身を省みて恥 じる心
自分の心を仏法という鏡に照らして観れば、その汚れ具合がわかります。
他の誰に気づかれなくても、自分は知っており、ごまかせません。
ある日、心の汚れについて説法を行い「ここにおられる熱心な皆さんは大丈夫です」と言った時のことです。
信 心深いAさんが「私は心が腐っていますから、だめです」と呟かれました。
それを耳にした私は、Aさんへの信 頼を深めたものです。
汚れ、未熟なままで〈いいわけ〉に逃げ、放っておいては、ますます恥 ずかしくなるばかりです。
③愧 (キ)…他人の目になって見て自分を恥 じる心
時折、「私は他人様の目など気にしません」という方がおられます。
強い決意と自信 をもって目的へ邁進しておられるのでしょうが、その固さには鉄筋の入っていないコンクリートのような脆さがありはしないかと心配になる場合があります。
そして、世間 体(セケンテイ)を気にする日本人の恥 に関する観念は低レベルであるといった議論には疑問を持っています。
私たちはどこまで行っても〈社会内存在〉です。
離れ小島で人目を避けつつ一時期を過ごした凶悪犯といえども、法治国家日本の領土内から一歩も出られません。
社会という大きな〈いとなみ〉の中に生き、それを構成している私たちは、「おかげさま」の心を持ち、周囲の人々との関係に感謝し、細やかな心くばりができてこそ一人前の人間と言えるのではないでしょうか。
最近、特に盛んな就職に向けた特訓も、技術を会得するだけでなく、「いかにきちんとした社会の構成員たり得るか」という自覚に結びついていただきたいものです。
そして、他者の立場に立った客観的な目で自分を外から眺め、客観的な立場でものを考え、「自分の尺度」という小さな物差しでなく大きな物差しで自分自身を測ることは、勝手な思いこみに陥る危険を避け、謙虚さを忘れぬために欠かせません。
公正 さや社会正義 といった価値観もまた、他者への意識が育てます。
また、忘れてならないのは、因縁果のつながりでこの世も自分も存在しており、他者たちを離れてはつながりが成り立たず、私たちが生きている一瞬一瞬は常に世間 と共にあるという真理・真実です。
「愧 」の持つ意義は決して小さくありません。
④無貪 (ムトン)…貪 らない心
すべては「原因と縁と結果」というつながりで成り立っている「空」の存在であるという真理を知らない心の曇りである無明(ムミョウ)があらゆるものを実体視させ、不変の実体であると錯覚した自分を中心として周囲のあらゆるものへ触手を伸ばさせます。
可愛い自分が楽しむためなら、何でも、いくらでも手に入れたいのです。
それが煩悩(ボンノウ)であり、互いの煩悩がぶつかり合って互いを苦へと追いやります。
他へ苦を与えることが罪であり、罪つくりになっている自分を自覚したならば、おのづから触手を抑えられるはずです。
貪 りの浅ましさ、汚らわしさ、醜さに気づけば、私たちはいつでも「タイガーマスク(伊達直人)」になれ、この世から苦は減ることでしょう。
貪 る姿を浅ましいと感じ、汚らわしいと感じ、醜いと感じるのは、私たちの心に仏性(ブッショウ…み仏になる原因としての種)があるからです。
無貪 の心は仏性の輝いている心であり、善き心です。
⑤無瞋(ムシン)…怒らない心
私たちがつまらぬことに怒り、怨むのは、「貪 り」の発生と同じく、無明(ムミョウ)のせいです。
怒りは、自分の思いや都合と異なった状況になった時に起こります。
そして、自分の思いや都合を〈優先〉させようとして争いになります。
しかし、考えてみるまでもなく、自分に思いや都合があるのと同じく、他人にもそれはあって当然であり、自分だけが優先されるべきである理由はないのです。
我が通せない、損をする、自尊心が傷つけられるなどの心理が怒りを起こさせ、怨みを抱かせますが、客観的には〈独り相撲〉でしかありません。
無瞋(ムシン)は自他を和ませる善い心です。
ただし、注意しておくべきは、「公憤(コウフン…公共の正義 という観点から起こる憤り」です。
私たちが善行 によって善き業 を積み、悪行によって悪しき業 を積むのと同じく、それらの総体としての社会もまた善き共業 (グウゴウ)を積み、悪しき共業 (グウゴウ)を積み続けています。
人を傷つけ、生きとし生けるものを傷つけ、環境を傷つける悪行と悪業 は個人的なものであれ、社会的なものであれ、放置できません。
なぜなら、それが仏性を持った私たちの本性だからです。
だから、公憤が起こります。
しかし、憤りに智慧が伴えば、一時の公憤は不退の信 念へと昇華し、やがて状況を変える方法を見つけ出すことでしょう。
昇華できない憤りは、愚かな破壊へと導く場合もあるので、たとえ憤りに正当な根拠があったとしても、そのままで善とは言えません。
無明(ムミョウ)は常に苦の原因であり続けるのです。
①信 (シン)…信 じる心
信 じなければ何も始まりません。
ただし、仏法は、やみくもに「お告げだから信 じなさい」というものではなく、自分自身の理性や感性などを総動員して教えを判断し、〈ものの道理〉として納得できたなら、それをすなおに信 じれば救いの道へ入られると説きます。
知っても信 じなければ入り口から入れません。「仏法の大海は信 を以て能入(ノウニュウ…入ること)となし,慧(智慧)をもって能度(ノウド…悟りの岸へ向かうこと)となす」。
入ったなら、その先を導くのは清らかな智慧です。
②慚 (ザン)…自分自身を省みて恥 じる心
自分の心を仏法という鏡に照らして観れば、その汚れ具合がわかります。
他の誰に気づかれなくても、自分は知っており、ごまかせません。
ある日、心の汚れについて説法を行い「ここにおられる熱心な皆さんは大丈夫です」と言った時のことです。
信 心深いAさんが「私は心が腐っていますから、だめです」と呟かれました。
それを耳にした私は、Aさんへの信 頼を深めたものです。
自分自身の心を知っていればこそ、何とかしないではいられず、修行は後退しません。
汚れ、未熟なままで〈いいわけ〉に逃げ、放っておいては、ますます恥 ずかしくなるばかりです。
③愧 (キ)…他人の目になって見て自分を恥 じる心
時折、「私は他人様の目など気にしません」という方がおられます。
強い決意と自信 をもって目的へ邁進しておられるのでしょうが、その固さには鉄筋の入っていないコンクリートのような脆さがありはしないかと心配になる場合があります。
そして、世間 体(セケンテイ)を気にする日本人の恥 に関する観念は低レベルであるといった議論には疑問を持っています。
私たちはどこまで行っても〈社会内存在〉です。
離れ小島で人目を避けつつ一時期を過ごした凶悪犯といえども、法治国家日本の領土内から一歩も出られません。
社会という大きな〈いとなみ〉の中に生き、それを構成している私たちは、「おかげさま」の心を持ち、周囲の人々との関係に感謝し、細やかな心くばりができてこそ一人前の人間と言えるのではないでしょうか。
最近、特に盛んな就職に向けた特訓も、技術を会得するだけでなく、「いかにきちんとした社会の構成員たり得るか」という自覚に結びついていただきたいものです。
そして、他者の立場に立った客観的な目で自分を外から眺め、客観的な立場でものを考え、「自分の尺度」という小さな物差しでなく大きな物差しで自分自身を測ることは、勝手な思いこみに陥る危険を避け、謙虚さを忘れぬために欠かせません。
公正 さや社会正義 といった価値観もまた、他者への意識が育てます。
また、忘れてならないのは、因縁果のつながりでこの世も自分も存在しており、他者たちを離れてはつながりが成り立たず、私たちが生きている一瞬一瞬は常に世間 と共にあるという真理・真実です。
「愧 」の持つ意義は決して小さくありません。
④無貪 (ムトン)…貪 らない心
すべては「原因と縁と結果」というつながりで成り立っている「空」の存在であるという真理を知らない心の曇りである無明(ムミョウ)があらゆるものを実体視させ、不変の実体であると錯覚した自分を中心として周囲のあらゆるものへ触手を伸ばさせます。
可愛い自分が楽しむためなら、何でも、いくらでも手に入れたいのです。
それが煩悩(ボンノウ)であり、互いの煩悩がぶつかり合って互いを苦へと追いやります。
他へ苦を与えることが罪であり、罪つくりになっている自分を自覚したならば、おのづから触手を抑えられるはずです。
貪 りの浅ましさ、汚らわしさ、醜さに気づけば、私たちはいつでも「タイガーマスク(伊達直人)」になれ、この世から苦は減ることでしょう。
貪 る姿を浅ましいと感じ、汚らわしいと感じ、醜いと感じるのは、私たちの心に仏性(ブッショウ…み仏になる原因としての種)があるからです。
無貪 の心は仏性の輝いている心であり、善き心です。
⑤無瞋(ムシン)…怒らない心
私たちがつまらぬことに怒り、怨むのは、「貪 り」の発生と同じく、無明(ムミョウ)のせいです。
怒りは、自分の思いや都合と異なった状況になった時に起こります。
そして、自分の思いや都合を〈優先〉させようとして争いになります。
しかし、考えてみるまでもなく、自分に思いや都合があるのと同じく、他人にもそれはあって当然であり、自分だけが優先されるべきである理由はないのです。
我が通せない、損をする、自尊心が傷つけられるなどの心理が怒りを起こさせ、怨みを抱かせますが、客観的には〈独り相撲〉でしかありません。
無瞋(ムシン)は自他を和ませる善い心です。
ただし、注意しておくべきは、「公憤(コウフン…公共の正義 という観点から起こる憤り」です。
私たちが善行 によって善き業 を積み、悪行によって悪しき業 を積むのと同じく、それらの総体としての社会もまた善き共業 (グウゴウ)を積み、悪しき共業 (グウゴウ)を積み続けています。
人を傷つけ、生きとし生けるものを傷つけ、環境を傷つける悪行と悪業 は個人的なものであれ、社会的なものであれ、放置できません。
なぜなら、それが仏性を持った私たちの本性だからです。
だから、公憤が起こります。
しかし、憤りに智慧が伴えば、一時の公憤は不退の信 念へと昇華し、やがて状況を変える方法を見つけ出すことでしょう。
昇華できない憤りは、愚かな破壊へと導く場合もあるので、たとえ憤りに正当な根拠があったとしても、そのままで善とは言えません。
無明(ムミョウ)は常に苦の原因であり続けるのです。