現代は「不安 の時代」であると言われるようになって久しいのですが、不安 は濃くなりこそすれ、一向に薄れません。
 私たちは、仕事 に関し、人間関係に関し、健康 に関し、老後に関し、死に関し、環境に関し、不安 だらけに思えます。
 では、不安 とは何でしょうか?

 危険 があると感じながら、それを回避したり、それから自己防衛できないと思える場合、「不安 」が生じます。
 また、実際に危険 が身に及びそうな場合、「恐怖 」が生じます。
 そして、危険 が身に及んだ場合、「苦痛 」が生じます。
 武士が剣を腰に差していた時代に有名な話があります。

 主命を受けた茶坊主が、武士の姿で江戸へ向かう途中、浪人者と諍いになり、立ち会わねばならなくなりました。
 腕に覚えのない茶坊主は一計を案じ、浪人者へ、「江戸で主命を果たしたなら必ず立ち会うので、それまで待ってくれ」と申し入れました。
 そして、江戸で剣道の道場へ飛び込み、指南番へ、主君の名に恥じない斬られ方を教えてくれと頼みました。
 伝授されたのは「剣を抜いたならまっすぐ上段に振りかぶって目をつむり、相手の剣が自分の体に触れた瞬間に剣を振り下ろせ」というものでした。
 やがて立ち会いの日を迎え、習ったとおりに構えた茶坊主は微動だにしません。
 これには修羅場をくぐり抜けてきた浪人者も度肝を抜かれました。
 見たことも聞いたこともない構えにたじろいだ浪人者は、斬りつけることなく降参しました。

 茶坊主はきっと、諍いになった時、「しまった」と不安 になったことでしょう。
 そして、相手が今にも剣を抜きそうに剣幕になった時は、強い恐怖 に駆られたはずです。
 そのまま我を失えば、いのちを落としていたはずです。
 しかし、さすが主命を帯びる人物であるだけに、自分のいのちはなくなることを覚悟し、主君の名を辱めない形で死のうと腹を決めました。
 きっと浪人者は、覚悟に納得したからこそ、申し入れに応じたのでしょう。
 今の時代なら、そのまま逃げるなり、交番へ駆けこむなり、助っ人と一緒に立ち向かうなり、いろいろな方法を考えるはずですが、舞台は江戸時代なのでそうは行きません。
 剣法では「皮を斬らせて肉を斬る。肉を斬らせて骨を断つ」と言います。
 実際に木刀などを手にして相手と向かいあえばすぐわかるように、斬り合う間合いは剣の長さの範囲であり、とても狭いものです。
 恐怖 心や我が身可愛さを克服せねば勝てません。
 江戸開城を目前に西郷隆盛と一人で面会した幕末の英傑山岡鉄舟 は詠みました。

「打ち合わす剣の下に迷いなく、身を捨ててこそ生きる道あれ」

 不安 にうち克つには、まず、「貴方ならきっと負けませんよ」という医師の一言、あるいは力をくれそうなお守 など、すなおに何かを信じることです。
 不安 は〈よるべない状態〉なので、その反対の〈すがれるもの〉を持つことが必要です。
 そして、医師の注意を守ったり、お守 を肌身離さず持ち歩いたり、自分のできることを実行しましょう。
 そうしているうちに、不安 は薄れるものです。
 自分自身を含め、絶えざる変化の中で生きている私たちにとって「不安 」は人生の同伴者のようなものです。
 ならば、不安 と反対の同伴者が必要です。
 仏法 はいかなる場合も安心をもたらす最も強力で信頼できる同伴者です。
 しかも、花開く仏法 の種は私たちの心に備わっています。
 最近、「地域の『あるものさがし』」を旗印にしている方とお会いしました。
 仏性 という種は、まさに〈あるもの〉です。
 多くの方々に、この宝ものを活かし不安 を克服していただきたいと願っています。


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