せっかく霊性 が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
曇りをもたらす貪りや怒りや迷い を脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経 』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
第26回目です。
25 井心(セイシン)
これは、本心を隠す心です。
「かくの如く思惟(シユイ)すること深くして、また甚深(ジンジン)なり」
上から眺めてもどれだけ深いか判断できない井戸
のように、深く考えた内容を人に知られたくなくて、じっと隠してしまう人がいます。
いわゆる「腹黒い」、あるいは「陰険
な」タイプです。
こうした人は、師へも先輩へも本心を隠しているので修行のレベルが明らかにならず、自分にふさわしい指導が受けられません。
指導する側も、すなおでなく、どこまで理解しているか、何を考えているかわからないのでは段階を経た指導のしようがありません。
修行の場にあって自分勝手に自分の利を求め、自分が欲しい情報を得るだけならば心は浄化されず、智慧も磨かれず、行者としては失格です。
ただし、世間にあっては、こうしたタイプが活躍する場もあります。
たとえば企業買収や、政権争いなどにあっては、〈隠密裏(オンミツリ)…知られないように気をつけること〉にことを運ばねば、成功も勝利もありません。
成果を得るために、相手側に防衛させない、あるいは反撃させないよう内堀も外堀も埋め尽くしてから鬨(トキ)の声を挙げ、一気に勝負をつけようとします。
戦国時代における軍師や内通者のような人々は、今も目立たないところで「井心」を武器に、活躍しています。
余談ですが、何となく政治が幼稚化したように感じられてなりません。
剣での立ち会いならば、お互いに腰が引けた状態で手を前に伸ばし、剣先でカチャカチャと打ち合っている光景です。
しかも、必要でない大声でワーワーと相手を威嚇したり罵倒したりしながら。
こんな立ち会いでは、小傷を負う者が続出するばかりで、世の中の帰趨を決める大勝負は成り立ちません。
腕のたつ者同士が立ち会えば勝負は明らかになり、結果は厳粛なものとして重んじられます。
しかも、勝負は斬り合わずして決まる場合すらあるのに……。
いったい、どうしたのでしょう?
急に、腕のたつ人物がいなくなったとも思えません。
情報化社会
が〈手の内
〉というものを許さなくなったからでしょうか?
いずれにしても、本心を隠しておくタイプの人はいるし、そうしてことを運ばねばならない場合があるし、そうしたい時もあります。
大切なのは、「心が通じる」とは、お互いに「相手の心が観える・自分の心が観られている」という安心
感がもたらす信頼
感を共有するところに成り立つ幸せな状態であるということです。
誰にでもあるはずの〈心の井戸
〉をのぞいてみましょう。
自分だけは、どのあたりが底であるか知っているはずなので、大丈夫です。