前回、み仏が迷いであると指摘した「陂池心(ハチシン)」について考えました。
この心は、立派な堤に守られた池に満々と水をたたえているのに、なお飽き足りなくて、「もっと、もっと水が欲しい」と、どんどん池を大きくしないではいられない「足るを知らぬ」状態になっています。
欲望は放置すれば膨張する習性があり、それを妨げるものを破壊しないではいられなくなります。
だから、「小欲知足(ショウヨクチソク)」が説かれました。
出典は「遺教経(ユイキョウギョウ)」の教えが代表的なものです。
「少欲有る者は、すなわち涅槃(ネハン)あり、これを少欲と名ずく、知足(チソク)の法は、即ち是れ富楽安穏の処なり」
(欲の少ない者には深い安楽があり、手にしているもので〈足りている〉と考えるところに真の満ち足りた喜びも安穏もある)
初期の仏教においては〈欲を無くす〉方向が目指され、小乗仏教では今なお、少欲知足が根本姿勢となっています。
しかし、自分の業(ゴウ)を見つめて恐ろしいと感じ、清浄な生き方に憧れる行者も、社会の共業(グウゴウ)を見つめて不条理を感じ、皆が仏性を輝かせながら生きられる世の中を希求する行者も、気づきます。
「欲の問題は、欲を少なくしたり、無くしたりすることによって解決できるのだろうか?
個人的な不共業(フグウゴウ)であれ、共業(グウゴウ)であれ問題意識を持ち、自己変革を行い社会のありようを変えたいと願う人間は、人一倍強い意欲を持って生きようとする。
そもそも、強い意欲無しには修行自体が続けられない。
煩悩となる欲望と、善行を後押しする清浄な意欲とは別物ではなかろうか?」
やがて仏教は、〈自他共に〉こそが慈悲の根本であり、自分を清らかなものにすることと他人の幸せを願うことは一体であると考える大乗仏教へと発展し、欲の問題は、自己中心の欲でない清められた意欲を大きく伸ばそうとする密教の大欲(タイヨク)の発見へと行き着きました。
「大」は無限を意味し、観音菩薩も、地蔵菩薩も、文殊菩薩も、虚空蔵菩薩もすべて、人々を余すところなく救い尽くそうとする大欲を持ったみ仏であり、私たちは誰でも大欲に生きることによって菩薩になれます。
人々へおいしく身体に良い食事を提供し、はたらける限りはたらいて人々の健康と長生きに貢献したいと願う食堂の経営者は大欲の持ち主であり、菩薩です。
人々を病苦から救い、安心と長生きをもたらそうとする医師は大欲の持ち主であり、菩薩です。
人々の足となり、安全に行きたい所へ連れて行きたいと考えて黙々とハンドルを握るバスの運転手は大欲の持ち主であり、菩薩です。
ここで、前回の稿をふり返りましょう。
「善願の成就を祈るすなおで意欲にあふれた心と、欲望が諸悪の根元であるとする考え方とを、どのように理解すればよいのでしょうか。
ここに『羅漢(ラカン)』から『菩薩(ボサツ)』へのジャンプがあります」
と書きました。
密教は善男善女の尊い善願が成就するよう、祈祷法や加持法や供養法を修します。
皆さんの自分でおこなう〈努力〉に、み仏の〈ご加護の力〉が加わり、それが周囲の〈縁の力〉をも引き出すよう祈ります。
この三つを「三力」といい、目的を達成するために「最善を尽くす」とは、「三力を結集する」ことです。
たとえば、受験であれスポーツの試合であれ、自分が努力するだけではなく、神社仏閣で祈ったり、お守を持ったり、あるいは験(ゲン)を担いだりし、周囲の人々も協力するではありませんか。
私たちは、無意識のうちに〈ご加護の力〉と〈縁の力〉へ感謝する「おかげさま」というすばらしい言葉を持っています。
何の世界であっても、およそ大成した人で「おかげさま」と思わない人はいないと思われます。
さて、み仏は、なぜ、こうした〈自分の願い〉という欲へ力を貸してくださるのでしょうか?
それは、自分の善き願いが成就して「おかげさま」と感謝すれば、他人の善願へも思いが至り、他人の善願成就を共に祈り自分のできることで手を貸す菩薩の心が開けるからです。
もしも自分が病気で苦しんでいたならば、なかなか他の病人の快癒を願ったり、リハビリへ手を貸したりできないではありませんか。
つまり、み仏のご加護は、私たちへ菩薩として生きる扉を開くところに真の意義があるのです。
だから、当山ではできる限り、願いをかける方々へ菩薩の心を説いています。
それをワンフレーズにすれば「自他共に」です。
「自分のために」善き願いを持つことが「自他共に」という善き願いへとステップアップすること、それが「『羅漢(ラカン)』から『菩薩(ボサツ)』へのジャンプ」です。
さあ、せっかく生まれ持った欲を敵視せず、自己中心的にはたらく欲をできるかぎり小さく、少なくし、「自他共に」を願って止まない大欲(タイヨク)を伸ばすよう学び、実践しましょう。
最後に大欲を説く経文である『理趣経(リシュキョウ)百字の偈(ゲ)』を書いておきます。
こよなき智慧の ひじりらは
いましこの世の つきるまで
つねに救いの わざをなし
涅槃(ヤスライ)にゆく こころなし。
般若(メザメ)と方便(テダテ) たぐいなき
加持(メグミ)のちから てり映えて
この世のまよい すべてみな
きよけきものと なりぬべし。
大欲(タイヨク)などの ちからもて
世のなかきよめ 調えて
この世の涯(ハテ)の 辺際(ハテ)までも
すべてのまよい つくさなん。
蓮華(ハナ)に深紅(シンク)の いろあるも
泥のけがれに 染まぬごと
けがれに染まぬ 大欲(タイヨク)は
あらゆるものを すくいなす。
きよき大欲(タイヨク) あるゆえに
安楽(タノシミ)ありて 富みさかえ
この世のなかに おもうまま
すくいのねもと 堅(カタ)むべし。