私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第24回目です。


24 陂池心(ハチシン)


 これは、財や地位を求めてやまない心です。

「渇(カツ)して厭足(エンソク)無き法に随順す」。


「陂」は堤です。
 立派な堤に守られた池に満々と水をたたえているのに、なお飽き足りなくて、「もっと、もっと水が欲しい」と、どんどん池を大きくしないではいられない「足るを知らぬ」状態です。
 仏法では、こうした厭くなき欲求の根元を、喉の渇きに堪えられず水を求める切実さのような強い衝動として「渇愛(カツアイ)」と呼びます。
 渇愛には三種類あります。


①欲愛(ヨクアイ)…身体的快楽を求めてやまない欲望。
②有愛(ウアイ)…有り続けたい、つまり、いつまでも生き続けたい欲望。
③無有愛(ムウアイ)…有りたくない、つまり、死んでしまいたい欲望。


 こうした抜きがたい欲望が、財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲の「五欲」として展開し、止むことがありません。
 そして、自分の五欲は誰かの五欲とぶつかりがちです。
 たとえば、同じ宗派の寺院同士が伽藍の大きさや檀家の数を競ったりします。
 たとえば、選挙では対立候補と戦います。
 たとえば、恋敵と争います。
 たとえば、おいしい店を知っていることを自慢したり、自分だけ少しでも長く寝ていたいと思ったりします。

 では、こうした欲望をなくせば、人は幸せに生きられるのでしょうか?

 日本人には、仏法をそのような方向へ導く教えであると考える誤解が根強くあります。
 不安がたかまった今、欲望をなくす瞑想法がさまざまに披瀝され、まるで透明人間になったかのような感のある人もいます。
 顔には穏やかな笑みをたたえ、静かな物腰で、じっとこちらを見る目には動きがないといった人が歩いています。
 最近、Aさんがお詣りに来られ、「今年はどういう年にしたいと考えていますか?」と訊ねてみました。
 家族や仕事についていろいろ苦労し、不満も言いながら意欲を絶やさなかったはたらき盛りのAさんが口ごもっています。
 そして、驚くべき言葉を発しました。
「───特にないんです」。
 顔の表面には透明なアクリル板がかかったような気配があります。
 心は不動でありながら、どこか頼りなげです。
 研究熱心なAさんがたどりついた心のありようが観え、「今はそこにおられるのか」と察しました。
 やがて、もうしわけ程度に希望を小さく口にして去るAさんを送りながら、不安な心を〈導く先〉について考えさせられました。


 さて、密教には心願成就の法が大きく分けて四種類あります。

①息災(ソクサイ)法…災いをなくす。
②増益(ゾウヤク)法…利益を増す。
③調伏(チョウブク)法…悪しきものを抑える。
④敬愛(キョウアイ)法…信頼を得る。

 病気をなくしたい、仕事を得たい、悪縁を切りたい、人間関係を円満にしたいといった様々な善願を持った善男善女がみ仏のご加護を信じて来山され、修法を受けます。
 こうした善願の成就を祈るすなおで意欲にあふれた心と、欲望が諸悪の根元であるとする考え方とを、どのように理解すればよいのでしょうか。


 ここに「羅漢(ラカン)」から「菩薩(ボサツ)」へのジャンプがあります。


大師山法楽寺のホームページ(http://www.hourakuji.net/ )もご覧ください。


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