かつては江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教・童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教・童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。


12 家族・師弟の門


父母(フボ)は天地(テンチ)の如(ゴト)く、
師君(シクン)は日月(ジツ)の如(ゴト)し。
親族(シンゾク)は譬(タト)えば葦(アシ)の如(ゴト)し。
夫妻(フサイ)は猶(ナオ)瓦(カワラ)の如(ゴト)し。
父母(フボ)には朝夕(チョウセキ)に孝(コウ)せよ。
師君(シクン)には昼(夜(チュウヤ)に仕(ツカ)えよ。
友(トモ)に交(マジ)わって諍(アラソ)う事(コト)なかれ。
己(オノレ)が兄(アニ)には礼敬(レイケイ)を尽(ツ)くし、
己(オノレ)が弟(オトト)には愛顧(アイコ)を致(イタ)せ。


①父と母の縁で自分が生まれました。
 今、天と地との間で自分が生きているのは、ひとえに父と母のおかげです。
 そして、父母は生んでくれただけでなく、父はいつも見守り導く「天」のようなものであり、母はいつも支え育む「地」のようなものです。
 父に象徴される智慧と、母に象徴される慈悲とによって、人は人として成長できます。
 人はそうした天と地の間にあって生きるので、〈間にある存在〉の意味で人間といいます。
 また、古来、天と人と地とを三才(サンサイ)といいますが、「才」は「はたらき」を意味し、天のはたらきと地のはたらきと人のはたらきによってこの世は時々刻々生成されていると考えられました。


②師と君、つまり個人的指導者と社会的責任者とは、人が成長し、社会が成り立つためになければならない存在です。
 師は学校では教師であり、習い事をしていれば先生であり、あるいは本を読んで秘かに「この人を師としよう」と心に決めたりもします。
 君は校長や社長や市長など、組織の責任者です。
 こうした方々が指導し、守ってくれていればこそ人はざまざまな面で成長でき、どこにいても安心して生きられます。
 昼には太陽、夜には月のように日夜、育み守ってくれています。


③親族は、葦がびっしりと生えているから強風にも倒れないように、何かのおりには支え合える大切なものです。
 冠婚葬祭において親族は、誰もが自分のことや自分の家族に起こったできごとのように喜び、悲しみます。
 夫婦は、瓦が屋根に設置される際、ぴったりと合わされなければ充分に役割を果たせないように、ウマが合い呼吸が合っていればこそ社会の単位としてしっかり生き、次の世代を生み育てても行けます。
 夫婦間が地震などでずれたような状態になれば個でしかなくなり、次世代への責任を果たすのも困難になりかねません。


④親の恩を思えば、孝行しないではいられません。


⑤師や君の恩を思えば、礼を尽くさないではいられません。


⑥友は理解し、支え、心を磨いてくれるかけがえのない他人です。
 つまらぬことで争い、絶交になったりするのは愚かしいことです。


⑦兄や姉は守り、鍛えてくれます。
 最も身近にいる「目上」として接することが、社会人になるための重要な修行ともなります。


⑧弟や妹は自分が守り、導かねばなりません。
 最も身近な「目下」であり、目上として思いやりと責任感を持つことが、社会人になるための重要な修行ともなります。


 この章では、身近な人間関係における心構えが説かれています。
 あるいは「古い」、「封建的だ」と感じられるかも知れません。
 しかし、『実語教』の「山高きが故に貴からず」などは『平家物語』などにも登場しており、私たちが「日本的」と感じる文化の多くが発展した室町時代などを通って指針となってきたことを想う必要があります。
 私たちには「個」からものごとを見る習慣があります。
 しかし、「絆」からものごとを観る視点も、「絆」の意義を考える習慣も必要ではないでしょうか。
 ともすれば忘れられがちな「絆」のありがたさを思い出し、ともすれば自他を傷つけがちな我(ガ)の暴走を抑え、魂を磨く素養とするために。


大師山法楽寺のホームページ(http://www.hourakuji.net/ )もご覧ください。



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