1月11日付の読売新聞は、「『無縁社会』の話をしよう」と題してマイケル・サンデル教授の話を掲載しました。
 教授は、無縁社会がやってきた原因の一つは、「現代の市場主義がもたらした豊かさ」そして、「極端な個人主義」であると指摘しました。

 家族であろうがご近所さんであろうが、肩を寄せ合わねば生きて行けない社会でなく、自分の財布さえしっかり握っていれば生きて行けるようになったので、他者が必要なくなったというのです。
 また、戦後民主主義が絶大な威力を発揮して敗戦までの規範や価値観をいっしょくたに排除し、「家のため」「会社のため」「国のため」などの縛りを解き、堂々と「自分のため」を考え、「自分が第一」としてはばからない姿勢を正義としている思想状況が問題であるとしました。


 教授は
「市民としての義務は何か。我々は、若者や高齢者にどんな義務を負っていsるのか。こうしたディベートは避けて通れない」

と議論を勧めました。
 ディベートとは

「互いを尊敬し、相手に耳を傾け、共通点を見いだそうとすること」

であり、我(ガ)を脇へ置きつつ他者の考えや意見や希望へ対して真摯に対応する対話です。


「コミュニティーが高齢者に対して責任を共有できる、新たな仕組みを作る必要がある。
解決策は地域ごとに異なるだろうが、コミュニティーが『共通善』とみなしたものでなくてはならない」
「かつて大家族が担った役割を果たすには、市民社会から発生したものが好ましい」

も重要な指摘です。
 地域ごとに方言があり慣習が違うように、文化が違うので、地域ごとの生活感覚に根ざした自然発生的なコミュニティーが理想なのです。
 
 そしてアリストテレスの思想を紹介しました。

「善き生とは、市民が美徳を育んでいける生き方だ。
 美徳は、市民が個人としてだけでなく、共に生きることによってはじめて育まれる」。

 これを読んで、本来、日本の社会にはこうした考えや感覚があったのではないか、教授が言うように

「個人の自律を第一に考える立場と緊張関係にある」

はずの〈共生〉の智慧があったはずであるという気がしました。
 美徳を育むには素養が必要であり、社会に素養を育む姿勢も仕組みもあったのです。
 それが江戸時代までの寺子屋であり、藩校ではなかったでしょうか。
 読み書きそろばんも、武術や学問も、生きるために役に立つものではあるとはいえ、むしろ、そうした実利よりは人間の土台を創るために果たした役割の方が大きかったのではないでしょうか。
 寺子屋の教材となっていた『実語教・童子教』を読むと、こうした簡明な道徳が言葉として子供たちの頭へ入っていれば、人間が人間として生きるための最大の敵である我(ガ)が自然に抑制され、他者の存在を無視しない潤いのある人間性が形成されたに違いないと思われます。
(「朝日スポーツボイス」へ『実語教・童子教』のわかりやすい紹介を始めたので、ぜひ、親子で役立てていただきたいと願っています)
 もちろん、「カントが唱えた自律的な行動を重視する考え方」の洗礼を受けてしまった私たちは、江戸時代へ逆戻りできません。
 自立心を備えた上で、コミュニティーを形成しようとする心や智慧を磨く必要があります。


「日本でのディベートでも、伝統的、歴史的な価値観についての考察が出発点になるだろう。
 だが、それだけでなく、伝統に根ざす価値観をどう現在に生かすかについても考えなければならない」

は、至極もっともです。

「ディベートでは、人によって異なった結論を導き出し、意見の不一致が浮き上がることもある。
 重要なのはディベートを通して、大きな哲学的な考えや、価値観を明るみに出すことだ」。

 これを怖れていれば、ディベートはできません。
 当山の寺子屋「法楽舘」も、NHK文化センターでの講座「生活と仏法」も、あるいは各所で行う法話の会も、教授の言う

「ささやかなディベートの場を生活の中で作ればいい」

という考えそのもので行っています。

 プロの宗教者が宗教者として皆さんと率直な意見のやりとりを行うことは、きっと、皆さんがそれぞれ生活の場で理想や人生を考え、人生の大事と向き合う際に役立つと信じています。

 教授の警鐘にもまったく同感です。

「倫理問題から大衆の目がそらされ、公共の重大な問題が置き去りにされてしまう」。
「どうでもいいゴシップが巾を利かせる傾向が強まっている」。

 社会の片隅で行われている地道で真摯なディベートが、やがてはメディアや政治を動かす力になって行くよう願っています。



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