美への衝動に取り憑かれたストリックランドについて、作家である「私」が、出会いから綴っていくという形式を取る。
今回2回目の読了。初回は、ストリックランドそのものと周囲の人々が織りなす悲劇を冷静に観察する「私」という登場人物が妙に好きになり、お気に入りの作品となった。
「私」は冷淡な人物と記憶していたが、再読してみると、一般的な良心、人情を持つ人間であることが伺えた。
ただ、作家という職業柄(あるいは彼の本質として)、好奇心が良心や人情を上回ってしまう場合があるだけなのだ。
さて、本作はストリックランドの人生を描いた作品であるが、決して美しい物語ではない。
妻子をなんなく捨ててしまえるほど、内に潜む衝動に身を委ねたストリックランドの生き方は、決して称賛されるものではない。
だが、他人の評価など気にせず生きる姿に、どうしても羨ましさを感じてしまう。
本作ではストリックランドとは別に、世間一般的な幸せを掴む充分な機会がありながらも、自分の魂に忠実に生きる登場人物も描かれていることから、画一された幸せの定義について、作者が疑問視していることが伺える。
実際のところ「やりたいことをやる」というのは、現代でも多くの人達が葛藤する。
本作が出版されたのは1919年であることから、少なくとも100年前からこのテーマは生き続けている。
むしろ、庶民に経済的な余裕が生まれ、生きるための手段が多様化している今日においてますます深刻化していると言える。
だからこそ、本作は現代にも通ずる名作として生き残り続けているのであろう。
ところで、本作は単純に「読み物」として面白い。
会話と情景描写のバランスがちょうど良く、登場人物達の会話が小気味良い。
また、所々披露される比喩もストンと腑に落ちる。
これはモームのセンスもさることながら、訳者の力量に依るところも大きい。
というのも、今回とりあげた新潮文庫の金原瑞人訳と、初回時に読了した光文社古典新訳文庫の土屋政雄訳を比較してみると一目瞭然だからである。
参考までに、「私」がストリックランドの妻に依頼され、失踪したストリックランドのもとを訪ねた際の場面を見てみよう。
■新潮文庫:金原瑞人訳[2014年発行]
「ろくでなしの人非人と思われてもいいんですね?奥さまとお子さんが物乞いをするはめになってもいいんですね?」
「知ったことか」
わたしは次にいう言葉に重みを持たせようと、少し黙った。そして、一語一語ゆっくりいった。
「あなたは、最低の男だ」
「これで、いいたいことはいってしまっただろう。夕食を食いにいこう」
ストリックランドの誘いは断るべきだったと思う。実際に感じた憤りをぶつけるべきだった。いっしょに食事をするなんてまっぴらだといってやりましたと報告すれば、大佐を感心させることができたはずだ。だがわたしには正義漢を演じ切る自信がなかった。
■光文社古典新訳文庫:土屋政雄訳[2008年発行]
「世間に悪人と思われてもいい。奥様とお子さんたちが物乞いをするようになってもかまわない。そういうことですね」
「そうだ」
私はしばらく黙り、次の言葉に最大の効果を持たせるタイミングを計った。できるだけ重々しい口調で、「あなたは人間の屑だ」と言った。
「言いたいことを全部吐き出したか?じゃ、飯を食いに行こうぜ」
たぶん、そんな誘いは断固はねつけ、腹の底に溜まっていた怒りをぶつけてやるべきだったと思う。あなたみたいな下劣な人間とは同席したくない…。そう言って憤然と席を立っていれば、少なくともマカンドルー大佐からの評価はぐっと上がっただろう。だが、私は小心者だ。
こんなに違う。面白い。
あくまで個人の推察だが、金原訳は心情や情景をストレートに表現し、文章のテンポを重視した意訳をしている。
一方、土屋訳は論文調で重厚、原典の雰囲気に忠実であろうとしている。
もちろん、どちらが正しいではなくどちらが好きかだ。
私は、テンポが良く物語に入り込みやすい金原訳が好みだ。
海外古典はこんな楽しみ方もできるのだから面白い。