AF(アーティフィシャル・フレンド/人口親友)と呼ばれるロボットのクララ視点で見た世界。

本編はクララが見聞きした情報しか描かれない。社会制度等のマクロ的な説明は一切なく、読者はクララを通してこの世界を断片的にのぞくしかない。
この世界についてすぐに分かる特異な点は「向上処置」という遺伝子操作の手術が存在し、それを受けた者と受けていない者で溝があるということだ。


※以降は完全にネタバレ

多くは語られない本作の世界について、いくつか考察してみよう。


①向上処置について
ほとんどの大学が向上処置を受けている子にしか門戸を開いていないことから、処置を受けることが一般的な常識として浸透していると見受けられる。



②「置き換えられた」について
クララのパートナーであるジョジーの父は「置き換えられた」らしい。「置き換えられた」とはどういうことなのか。

ジョジーの母が、父(元夫)は才能と経験があるのに「置き換えられた」と憤っていることから推測するに、向上処置を受けていない者が、受けた者に職を奪われたことを指すのではないか。


①②から、この世界の構造が垣間見える。
このような社会だからこそ、親たちはリスクのある向上処置を子供に受けさせるのだろう。
だとしても、一度長女を亡くした手術を次女(ジョジー)にも受けさせることにした母親の決断は相当なものだ。自分が同じ立場なら決断できるだろうか…

母親の心境を察したとき、向上処置を受けていない子が周りから異端児として扱われる理由が少し分かった気がした。
線引きするのは、能力が劣っているためというよりも「リスクを恐れて決断できなかった者」として軽蔑しているからではないか。
であるならば、処置を受けていない者、受けた者で隔たりが生じるのも当然と言えるかもしれない。



③ボックスについて
クララ自身がボックスと呼ぶ、視界が分割される現象がときおり描かれるが、トンボの眼のような機能であると考えられる。
対面している相手の感情が高ぶる、身に危険が生じるタイミングなど、処理する情報量が多い場合に作動するのであろうか。



④ラストシーンの店長の歩き方について
あとがきにて称賛されていなかったら全く気にしていなかった場面。だから、ここにどんな意味が込められているかさっぱり分からない。

なんとか捻り出した推測は、
店長が過去に受けた向上処置が原因で、年月が経った今になってジョジーのような症状が発症している。
→人間そのものを作り変えてしまう社会の危うさと警鐘。

としたが、Chat-GPTに尋ねた結果はこうだ。

「ジョジーの歩き方を忠実に再現するほど観察力の優れたクララに対する敬意、人間がロボットになりつつあることへの示唆」

…ふーん、そうなの?(全 然 読 み 取 れ ん か っ た)

でも、クララへの敬意だとしたら、後述する私の悲しみがまだ軽減されるかもしれない…



最後に、ラストシーンについて。
ジョジーが成長し、子供の親友としての役割を終えたクララは捨てられた。悲しかった。
意志をもった献身的なロボットであっても、道具という枠組みを超えられず捨てられてしまうのかと。

ただ、それはジョジー家がとりわけ薄情だった訳ではない。むしろ、「そっと引退させてあげたい」といった母の言葉や、ジョジーがクララをとっくに必要としなくなった後も物置部屋に数年ほど置いていたことなどから分かるように、ジョジー家のAFに対する愛情は深い。

それでもこの世界では「AIに命は無く、あくまで道具」という価値観により、不要になったら捨てるのだ。
この事実に読書はどう感じるのか。

「AIは生きているといえるのか」という問いへの答えを出すのは難しいが、クララを捨てることに対する個人の感じ方が、このテーマを考えるための足がかりとなる気がしている。



以上、触れてきたように、読者が想像する余地を多く残した奥行きのある作品である。
けれども、話が難しい訳ではなく誰でも充分に楽しめる。
これぞノーベル文学賞受賞者のなせる技だろう。

本作のように、物語の面白さに加えてあれこれと思考を巡らせてくれる作品が名著と言われるのであろう。