後10年早く太鼓持ちを始めていたら、

経済の波に乗れて何とか生きて行けただろうと思っても、

時代の流れも自分の生まれも自分ではどうしょうも出来ない、

頑張る事しか出来ない。

 

それでもやりたい事が出来ていて

指数関数的に考えれば毎年一定の伸びで進むよりも、

遅れても常に太鼓持ちに取り組んでいれば、

まだ日本経済は捨てたモノでは無いので、

何時か伸び上がる時が来るだろうと、

自分で自分を励ますだけでした。

 

今の自分に不足しているのは、

太鼓持ちを如何に世の中に知らしめるか、

CMを打ってもお金の量で勝負が決まるので、

報道の方が取材が来るようにするにはどうすべきかを考えていた時期です。

 

1989・S64/H01・43歳

ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が形的には終了しました、

日本では昭和天皇崩御され1つの時代が動いた感じがしましたし、

消費税3%が実施され、

株価は史上最高値の38,915円を付けました。

 

景気もピークを打ったのではと思っていたが、

北陸・中京・関西で太鼓持ちとして

ボチボチ活躍出来るようになっていたし、

日本が世界最大の経済大国へと発展、

全体の所得が上がり余裕を持った人達の遊びに変化が出始めて来た。

 

接客業界の助成不足が生じ、

しきたり・お稽古・着物の堅苦しい芸妓は敬遠され、

世の中がスピード化して、

時間を掛けて創造・伝承を行う人が少なくなってきて、

遊び方にまで変化が出て

宴席も芸妓より若くてウブなミニスカートの女の子の

コンパニオンに変化し始めました。

 

当然芸妓不足になって来たので

支援する動きが全国各地に出始めて、

福井でも福井商工会議所の中に、

福井芸妓伝統育成会が発足、

66の企業や個人に事業所が会員となり、

平成2年度に430万円の予算で事業を始める事になった。

 

この動きに合わせて「

福井芸妓伝統育成会に対する提案書」を

太鼓持あらいとして3回福井商工会議所に提出して、

あわよくば太鼓持ちも使って頂いて、

お座敷と芸妓文化の底上げが出来れば嬉しいと思って、

色々と提案書や資料など出して協力したが、

発足時の宴会に呼ばれただけだった。

 

この年、

京都祇園のお茶屋一力(万亭)の12代目杉浦治郎右衛門さんが亡くなった、

歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の「一力茶屋の場」から、

今までは万亭だったのを万の漢字を分解して

一力に屋号を変更し、

毎年3月20日には大石忌を営むお茶屋として有名でした。

 

福島県金山町商工会では、

村おこしとして「ひょっとこ踊り里」作りに乗り出した。

 

この頃から大勢で楽しめるパティー用ゲームが人気となり、

東京では宴会幹事代行業が登場して、

名簿作成・案内状印刷発送・会場押さえ・セッティングなどの代行をする

業者が生まれました。

 

大勢での宴会には太鼓持ちは合わない、

少ない人数でこぢんまりと

舞妓・芸妓を入れて優雅に遊ばれるお座敷で無くては太鼓持ちの需要は、

単に艶っぽい芸を見せるだけになってしまう。